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ピーコ「あたしって、ほんとバカ」←言わなさそう

ぼくは2022年という年数になってからというもの現段階で映画を新旧50個観てしまったんですが、もともとそのような生き物ではなかった。ヘッダ画像をお借りしています。

どんな映画を観ていたのか?については一切マガジンとかにまとめておらず(後述するようにおすぎとかの例外を抜きにして、あまり自己や第三者の映画感想には価値がないと思っているため)、調べようがないので検索窓なんかを駆使していただけるとわかるかも知れません。

つまり映画が生き物としての年表にない生き様を送ってしまっていた。なのでもしかしたらその空虚を埋めるために何らかの心的作用がはたらいて、今このようにして映画を観すぎているのかも知れない。

おすぎ評

映画を観ていない生き物だった頃、ぼくはおすぎの映画評を信頼していました。いっつも巫山戯たことばっか言っている彼女が映画評論家にモードチェンジするとたちまち、極めて真摯に物事に対して向き合っている。そこには何らかの信頼が存在する余地があるとぼくは思う。

しかし悲しいかな、おすぎが活動的だった頃はあまりにも子供であり、映画を生活に組み込もうとする気概など去来しようがなかった。また、おすぎをそういう芸風がおもろい人だなあ程度の底の浅い、人を表面から観た額面通りにしか受け止められないつまらない生きざまを送っていた。彼女の言うままに映画を貪り食えるような生活が手にできていたらどれほど生き様が豊かになっただろう?

しかしながら映画ばかり観ていたら観ていたでそれなりのギークな生き物になってしまっていたかも知れないと思うと、どちらが良かったかなんて一概には言えません。

「くそ映画」と言う人=「言う」ことが目的になっている

映画を見る気にならなかった理由の一つに、周りの生き物が斜に構えていたことがあります。つまりこれは環境=他者のせいであるとする論拠です。

彼ら/彼女らはいわゆるくそ映画(自分本意な言葉だ)に対して「くそ映画だ」ということを生き甲斐にしているようだった。ならばいい映画を探し求めてはどうか?まずは最大公約数的な評判の良さを持つものから……というのが彼女たち/彼らを見るときのぼくの感想だった。

くそ映画を観てどこがだめだったのか、次はそのような映画を観ないためにどういった観点に基づき映画を探すべきか、というようなPDCAを繰り返していけば、「こんな映画を見て人生が豊かになった」みたいな体験価値が得られるのではないだろうか?「こんなくそ映画があったやで~~www」みたいにひけらかすことが目的になっていて、もはやその裏付けを得るためだけに映画を消費しているのではないだろうか?と思わされた。

そのようにして、ぼくは映画評論家やくそ映画という単語が生理的に受け付けなりました。そして映画というジャンルのエンターテインメントはぼくの生活に介入する余地がないものと自動的に切り捨ててしまっていた(価値がないとか思ったわけじゃないです)。

この下地を踏まえて、日本の映画である「Wood job」という林業にスポットを当てたラブコメみたいな映画の感想を書きたかったんですが、どえらい時間になってしまったのと単純に時間がないのと説明部分がどえらい比率となってしまったのでまた明日以降にお目にかからせてください。

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