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ロックの定義について考える

ロックの定義とは、定義などについて考えられるような存在がもはやロックではないことにあり、つまりこの題名は即座に破綻してしまうのだが、それでもロックについて考えたい。ヘッダ画像をお借りしています。

以前ぼくはほぼ似たようなことを言っており、もはや歌の一種であると定義づけようとする行為すら愚かであると言っている。

つまり冒頭で述べたこととは自由と同義なんだけど、なぜ自由と言えるのだろうか。

ロックは例えば世界が何らかの宗教一色に染められた場合でもその神経はおかしいと風穴が空けられる歌であるような気がする。何らかの宗教下にあるということは、その宗教が定める範囲から逸脱してはならず、それは自由ではない。特定宗教の認める中にある自由でしかないだろう。

つまりロックの自由度とは「解放」の象徴でもあるのではないだろうか。上記のように宗教が世界を包んだのであれば反発心を歌うだろうし、衆愚政治が世間を包めば反抗心を歌うだろう。プロテスタントに対してさらにプロテストを叩き込むわけです。

恐ろしい行為な気がする。何かを攻撃するとは周りを扇動するような行為でもあるような気がするため。でもロックとは歌のプラットフォームを越えることはないのだ。楽器で何らかの音を発し、何かしらの言語に基づく文を載せている。そこまでである。

もちろんその歌が商業的な組織、背景から生み出されたのであればプロモーション目的で歌のプラットフォームにとどまらず映像メディアとしてPVが造られることもあるだろう。また……その歌が封じ込められたCDなり配信ファイルがリリースされたのであれば、そのリリースに基づいて歌を作った者たちがインタビューメディアにすら登場することがありそうだ。本、TV、ほかインターネットメディア……なんでもいい。

それはロックなのだろうか……メディアで商品の販売量を押し上げる行為がロックなのだろうか。それはもしかすると産業ロックという名を与えられ、一部層からは忌避されるのかも知れない。

産業と同化したロックとはどのようなロックなのだろうか。当該産業がある一定のコンプライアンスを持ち合わせていた場合、当該産業と契約する以前のコンポーザがもし政治や教会なんかを否定しまくる歌を歌っていたら、そして極端な例だが当該産業が政治家や教会から資金提供とかを合法的に受けてたとして……インディーズ時代の歌を唄う制約をかけた上に、似たような歌は今後一切造るな、という圧力を与えそうである。

圧力と言いますか、契約時に思いっきりそれを課す。例えばコンポーザ側がそれに折れる行為とは、ロックの負けを意味するのだろうか?自由とは敗北するのだろうか?反抗心、抵抗、反発とは一方的に負けるべきなのだろうか。

ロックとは自由と述べたものの、実は思いっきり制限がかけられていることにお気づきだろうか。

それは冒頭で述べたように、
「ロックとは歌のプラットフォームを越えることはないのだ。楽器で何らかの音を発し、何かしらの言語に基づく文を載せている。そこまで」
だからです。

それを聴いた人が首相を殺したりしてしまうのかも知れないが、ロック自体は何かの殺傷能力があるわけではない……HUNTER×HUNTERの魔王の旋律みたいなことが起こらない限りは。

そしてまた、ロックとは見返りを求めるものではない……はずである。つまり反抗そのものが目的の場合、周囲がそのとおりだと反抗の仲間に加わるのは勝手だが、それはあくまで手段であり、反抗の対象が討ち滅ぼされること……が目的というよりはその反抗の対象が強いてくる一方的な統制から逃れ得る可能性を獲得することであり、その統制の異常さを世間に知らしめられれば第一意義は達成したといえるのではないだろうか。

さらにそこへ「産業的成功」を持ち込んだ時、それはロック足り得るのだろうか。販売数という数字で、様々なロックが第三者から勝手に比較されうる。

大衆にロックを与えてもそれは娯楽にこそなれ、比較対象には……ならない気がする。しかしながらロックに付随するものとして「数値」を与えてしまうと……大衆とは「ある固定された視野角からのみ評価する評論家」と化してしまうような気がする。

さらにしかしながら、ロックとは数値に比肩されない自由さを持っているはずであり、第三者がロックを聴き「どうしても比較したい」という衝動を受けたのであればそれもロックが存在する意味があったと言えてしまうのであり、

大衆がいかに評価を加えようとも、それは単なる後付であってロックの立場が揺れるものではないようにも見える。そして斯様な状態が保たれるのであれば、ぼくが過去に産業ロックを否定したような感じと矛盾する気もするんだけど、それはそれで面白いからいいか……

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