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セブンティ・イヤーズ・イン・マーティン・スコセッシ

マーティン・スコセッシの映画をなぜか連続して見る機会がありました。ヘッダ写真をお借りしています。

こちらにも少し書いてますがまずタクドラ(タクシー・ドライバー)を見て、グッドフェローズを観て、アイリッシュマンを観て、ティパーテッドを観た。

タクドラはあまりにも古い映画だった。現代で言う勘違いストーキング野郎の悲しい生き様を見せつけられているのか?これは……と思ったんですが、さらには自分も生まれてない頃の映画だし一概にそんな決めつけしちゃいかんがやと思うんですが……

自分より上の世代の好きなミュージシャンたちは一向にタクシー・ドライバーを敬愛している雰囲気があったので、そんな鳴り物入りな印象がありすぎたのもいけなかった。事前期待値が爆上がりだった。

「教養として観ておかねば感」つまりやらされてる感で観てしまったのでしょう。いきおいストーキング野郎映画だと思ってしまった。ロバート・デ・ニーロに何をさせているんだ?と。モヒカンテロリズム野郎かよ、と。

今にして思えば主人公も戦争上がりで若い体を持て余して、さぁこれからどないして生きたらええねんぐらいの悲哀をまずこちらも受け取らねばならなかったんでしょうが、経歴ごまかしてタクドラになって……割と転身うまいしどこでもやってけんじゃん?現代の若者が見たら腰を抜かして漏らすんちゃうかぐらいのバイタリティがあるから、畢竟まともな人間の成り上がりストーリーなんやろな、と思わされてしまう。

しかしながら配車中に見かけた女の職場を永遠に監視し、興味がないのにその職場にジョインしようとして、口八丁で女を連れ出せたら今度は日活ロマンポルノみたいなシアターに連れ込んで交尾シーンを見せつけるだの狂いが生じ始めた……

本人は狂っていないと思っていそうなあたりに救いがない。なるほど、南北戦争だかベトナム戦争だかに参加して、心身やられて生還すると女ひとり誘うにも常識が欠如してこんな行動になってしまうのか。

そんな悲哀を後年の視聴者が推し量らねばならないのであれば、そんなことは知ったことではない。と思いながら見ていたぼくは見事に何の共感もできなかった。マーティン・スコセッシとは反りが合わない、ひいては好きなミュージシャンたちとも反りが合わないのか、と悲しむほかなかった。そのミュージシャンたちの歌はほとんど無条件で脳死で好きなのに、彼らが好きなものを俺は好きになれないのか。

と思ったらそうでもなかった。冒頭のように以後マーティン・スコセッシの映画を立て続けに見ても同じ気持ちにはならなかった。

みたいなことを引き続きグッドフェローズの感想で書きたいです。

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