グリーンバグ、レッドバグ、ファブル
ヘッダ画像をお借りしています。映画ファブル(ひとつめ)の感想を書いていたら郷愁がわいてしまい、漫画を読み返しました。
漫画と映画の違いについて
ひとつめの話は漫画でいうと1~7巻あたり……でしょうか。こう観ると案外端折られた部分がめちゃくちゃある。そしてぼくは物語における悪が大嫌いになりがちであるためか、
小島というカスの存在を結構ガチで忘れていた。
そして黒潮が真黒組のメインとなってしまい、序盤で使い勝手の良い駒だった高橋が一切出てこなくなっていることにワロタ状態になりました。
なぜなら黒塩は高橋なんかよりもっと非常に使い勝手が良いからでしょう……ひとつめの映画の区切りの終わりの方で、佐藤明の育ての親が出てきますね。佐藤浩市です。
舞台装置としての親ファブルの便利さ
ぼくは単純に佐藤浩市に興味があるためこの配役にイラつきはしませんでしたが、育ての親ファブル(佐藤も親もファブルと呼ばれる)は黒塩なんかより超絶都合のいい使い勝手が良い駒、舞台装置だなあと思えた。
それは恐ろしく遠隔地にいながら佐藤(ややこしいですが佐藤浩市じゃなくて明のほう)の身の回りについて把握しており、自分の目的(映画と漫画で大きな乖離があります。
映画は親ファブルが佐藤に一年間アサシン以外の人生を送らせて機能低下したらどうせそんな世界で生きていけないに決まっているから自分の手で殺すというヤンデレかよみたいな目的。
漫画の親ファブルには、対人殺しの技術に長けていてもあまりにも文明が発達しすぎて業務に支障をきたしている兆しが現状あり、そんなんだったら今からでもファブルが平和に暮らせる下地を作れるよう、ファブルファミリーの外で人生経験を積ませてあげたい、という目的がありました)
に影を落とす存在があるのであれば断罪する。佐藤明の人生から排除しようとします。例えば入院している海老原を映画では結束バンドでベッドごと拘束し、枕を刺していつでもお前をこうできると言った。漫画では結束バンドは使わない。いずれも佐藤明に死に近づくことをさせるのであればお前を殺すという脅迫が目的であり、海老原が目を背けた瞬間に姿を消すという人間離れした技法を見せてその言葉が嘘ではないと思わせることに成功する。
ただこれは作者にとっても都合が良くて、せっかくオクトパスで働き口を見つけられたファブルの人生から邪魔な駒を取っ払うために、海老原が小島をぶっ殺す動機の後押しともなったんじゃないだろうか。
海老原が小島を観て「こいつもう更生できひんな」と間違いなく思うだろうけど、それだけじゃまだ砂川の面子を潰すために小島を許そうとするかも知れない。だけど小島はファブルの組織に喧嘩売ったし生かしておくメリットがもうなにもない。自分が殺すことで砂川に反論の隙も与えず、真黒組ナンバー2の地位を不動のものにできる。
これは海老原という後ろだてが必要なファブルにとっても都合が良い。つまり親ファブル=ボスは作者自身とも言えるのではないだろうか?
漫画を読み返して思ったことはまだあるので続きます。おやすみなさい。