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東京生まれで東京育ちの僕が、長野県の農村で育った女性と結婚するために彼女の実家に行って、お金に対する感覚の違いを感じた話を書いた。

「お金」というものは、世界中で使われている普遍的なものであるし、お金に対する感覚もまた、普遍的なものであると思いがちだけれど、実は人によって考え方や感じ方が違うものである、ということを思い知った。

僕は、彼女と結婚した後、彼女の実家に何度も足を運ぶに度に、お義父さんと酒を飲み、その話を聴くのが楽しみになっていった。
僕とは違う視点を持っている人の話を聴くのは楽しかった。
そして、数々の印象的な話を聴き、深く考えされられた。

どうしてトマトは同じ形で同じ大きさなのか

お義父さんの話の中で、最も印象的だったのはトマトの話だ。

お義父さんは地元の農協の職員だった。
そこで、農家の経営改善のための指導員を長らく務めていた。

ある時、僕と酒を飲んでいるときに、トマトの話になった。

「トマトは出荷されるときに、同じ大きさ、同じ形のモノだけが出荷される。どうしてそうなるのか、知っているか?」

「さあ。見栄えが良いから。。ですか?」

「違うよ、輸送効率、コストの問題だ。

まず、輸送効率がいいように、箱の大きさが揃えられる。
いろんな大きさの箱があったら効率が悪いからね。
さらに、その中に入れられるトマトの数が決められる。
そうすれば、箱単位の取引ができて、効率が良いんだ。

だから、形が悪かったり、大きすぎたり、小さすぎるものは出荷できないんだ。
そういうのは加工用になったり、(農家が)自分たちで食べたり、それでもだめなら捨てられる。
ただ形が悪いだけで、売り物にならないんだ。
トマトであることには変わりはないのにな。」

そうなのか、知らなかったし、考えたことはなかった。
輸送効率の問題なんだ。
金の問題、経済の問題で、トマトは選別されるんだ。

トマトは工業製品じゃない

工業製品なら、すべての製品を同じ形、同じ大きさに作ることは可能だ。
でも、トマトは工業製品じゃないので、すべてのトマトを同じ大きさに作ることは不可能だ。

だから、農家はたくさん摂れたトマトの中から、規格に合うものだけを選別して出荷する。
これはとてもじゃないけど、効率的とは言えない。

輸送コストは効率的かもしれないけれど、農家の生産コストは全く効率的とは言えない。
つまり、輸送コストを抑えるために、農家がその非効率性のコストを被っているという構図になっているのだ。

これでは、農家はたまったのものではない。
この構図は、あまりにも不公平ではないだろうか?

そもそも農家がトマトを生産しなければ、トマトが僕たちの食卓に届くことはないし、その間に存在する物流や小売業も、儲けることはできないはずなのだ。
それなのに、一番効率が悪い部分を生産者が負っているというのは、どう考えても納得のいくものではない。

人間の教育にも似ている

僕はこの話を聴いたときに、自分たち人間も、このトマトと同じように育てられたのではないかと思った。
まるで自分がトマトになったような気分だった。

人間もトマトも、工業製品ではない。
そもそも、他人と同じなんてことはあり得ない。

なのに、学校では同じ教室という名の箱にに沢山詰め込まれて、同じ授業を聴き、同じスピードで成長していくことを求められる。
さらに、会社や組織という箱に入れるような人材を育成することが教育の目的になっている。
「常識的でちゃんとした大人」になるように育てられる。

「常識的でちゃんとした大人」は、まさに箱に納まって出荷されるトマトのことなんだ。

社会に出るときには(出荷)、みんな同じような能力を持っていることを求められる。
会社という箱に詰め込まれて、その箱になんとか入り込もうとして、ほかのトマトと同じような大きさや形になろうとして無理をしているのではないか。
本当はそんな形じゃないのに、そんな大きさじゃないのに、その箱の中に納まろうとして、必死になって自分を偽っているんじゃないだろうか。

そこに馴染めなければ、出荷されずに捨てられてしまうかもしれない。
そんな恐怖を植え付けられて、必死になって箱に納まっている。

そうだ、僕がうつ病になったのは、箱の中に必死に入り込もうとしたからだ。
本当の自分は、そんな箱になんかはいりたくなかったのに、社会という箱から捨てられてしまうことが怖くてしがみついていたんだ。
出荷されるような立派なトマトになるために必死になっていたんだ。
それが、大人になることだと、成長するとだと信じて。

そんなイメージが頭の中に湧き上がってきた。

経済効率が優先される社会

今の日本の社会は、とても窮屈な空気が充満している。
生きづらい世の中だと思う。

その空気を作り出しているのは、「経済効率」だと思い至った。

自然の産物である私たち人間は、そもそも同じ形をしているわけではない。
みんな、凸凹しているし、能力も違うし、大きさも違う。

それを、「経済効率を良くする」というお題目のもとに、同じ能力を持つように求められ、同じ仕事をこなすように求められる。
機械のように、いつでも同じ性能で動くことを求められる。
それはとても非人間的なことを求められているということだ。

そういう動き方を期待するなら、ロボットにやってもらえばいいのだ。
自然の産物である生身の人間がやることではないんだ。

箱に入れなくてもトマトはトマトだ

嫁さんの実家に行くと、採れたての美味しいトマトを食べることができる。
形はいびつでも、みずみずしくてとても美味しい。

箱に入れなくても、トマトであることには変わりはないのだ。
箱に入れることに価値があるわけではないんだ。

学校という箱に馴染めなくても、会社という箱に馴染めなくても、トマトとしての価値を解ってくれる場所はきっとある。

たまたま、箱が合わなかっただけのことだ。箱が合わないなら、箱の外で勝負すればいいだけのことなんだ。

「経済効率」なんていうもののために、窮屈な思いをするのはバカバカしいと思わないか?

教育を変えてほしい

日本の教育は、明治時代の富国強兵から始まっている。
経済を発展させ、強い軍隊を作り、西洋に追いつき、その仲間入りをする。
そのための人材を育成するのが、日本の教育の原点だ。

第二次世界大戦で負けて形ばかりの民主主義を得て、「強兵」の部分は無くなったけれども、相変わらず「富国」の方は受け継がれている。

経済効率のいい人材を育てることが、教育の目的になっているのは明白だ。高度経済成長期は、その教育の成果が出たのだと思う。
しかし、バブルが崩壊した後は、その成果が出なくなった。
そろそろ、教育を見直す時期なのではないか。
学校という同じ箱の中で、同じ形のトマトを育てるような時代ではないと思う。

これからの時代は、人間らしい多様性の時代だ。
教育も、多様性の時代に合ったものにしなければいけない。
経済効率の部分は、AI搭載のロボットに任せればいいのだから。

(つづく)

自分がうつ状態に陥って、そこから這い上がってくる過程で考えたことなどを書いています。自分の思考を記録しておくことと、同じような苦しみを抱えている人の参考になればうれしいです。フォローとスキと、できればサポートをよろしくお願いします!