セツと旅したのは「私」だった(グノーシア感想/エッセイ)

 今年の初めに「私」の情緒をぐっしゃぐしゃに掻き乱した「グノーシア」というゲームについて書く。ぐしゃぐしゃといったら文字通りのぐしゃぐしゃだ。枕カバーをウェットティッシュみたいにしっとりとさせて眠るともなく眠った1本である。

http://d-mebius.com/gnosias/
 元々はPSVitaで発売されていたインディーゲームなので、発売からの数年で感想や考察、レビューがさまざま世に出回っている。「私」はSwitch版でクリアしたが、今度はSteamでも配信されるそうだ。
 今更感のあるこの記事は、あくまで「なぜ『私』がこうまで揺さぶられたか」になることをご承知おき願いたい。

 ……というか、おそらくは誰がどのようになるべく客観性を保とうと努めながら語っても「『私』という人間の体験記」になってしまう。グノーシアというゲームにはそういう側面がある。それこそが「私」の情緒をぐっしゃぐしゃにした要因といえよう。

 例えばだが、対人戦を前提としているゲームならば、個々人で体験が異なることもなんとなく納得いくと思う。一緒にモンスターを狩ったり、戦わせたり、色を塗ったり、村を作ったり、ステージ外に弾き飛ばしたりするゲームは、ゲーム自体が作ってくれる「場」みたいなもので、「人と人」が遊ぶという印象が強い。
 グノーシアの恐ろしいところは、「プレイヤー1名vsゲームソフト」という構図でありながらプレイヤーごとの体験が異なること、なおかつ圧倒的に「私」の体験として物語を印象付けられてしまうところにある。それでいて辿り着く場所はただ一つなので、プレイヤーの好みで攻略対象キャラクターが異なる……というタイプともまた違う。
 この仕掛けがグノーシアの魅力であり、恐ろしさでもある。(もちろんこれも個人の感想なので、別の視点でグノーシアを楽しむ人も大勢いるだろう。それらを非難するものではないし、どんなゲームにもプレイヤーの数だけの感想と印象が生まれるのは素敵なことである。)

<注>
 「私」は「このゲームは他人の感想やプレイ動画の前に、まず『自分自身でプレイすること』に大いなる意義とかけがえのない体験がある」という立場です。そのため、この先を読むことを、「真エンドまでクリアした人」及び「逆に今後何があってもグノーシアを遊ぶことはない人」以外には推奨しません。

ゲーム「グノーシア」とは何か?

 グノーシアを紹介する際、いわゆる「人狼ゲーム」をプレイヤー対NPCで行うことがメインである……という説明が、おそらく一般にされていると思う。
 ところが、この案内にはやや語弊がある、と私は思っている。
 というか、大いなる齟齬が生じる恐れがあって、場合により悲劇をもたらすと感じている。なにしろ「生身の人間相手に人狼ゲームの駆け引きを好む層」に対し、必ずしもグノーシアが刺さるとは限らないのである。現に、同時期にプレイし始めた友人でも「人狼ゲームは好んでいるがグノーシアはまったく刺さらず途中でやめてしまった」という例があった。(もちろん両方を好む人もいるだろう。)

 いよいよ個人の見解になることをご理解いただきたいのだが。
 グノーシアというゲームは「人狼ゲーム」そのものをある種の「手段」として用いていて、それ自体が目的ではないと感じる。
 より正確には「目的は人狼ゲームそのもの"だけではない"」とでもいうべきか。とはいえ、プレイヤーの行動のほとんど、プレイ時間の大半を占めるのはこの「人狼ゲーム」なのも確かであって、さすがに人狼ゲームがまったく目的外であるとまでは言いにくい。
 この点で、「人狼ゲーム」自体は「目的」かつ「物語の核心に迫るための手段」であるから、手段それ自体が目的という点で、すなわち「遊び」と呼べると思う。
(大切なことだが、そもそもゲームとは遊びである。遊びじゃねえんだ、などとは、場面を選んで発言しなければよく練られた遊びに対してド失礼だ。)

 ただ、「手段」である以上は便利でお手軽でさくさく使えるモノである方がよい。たいていの道具に関してと同じである。実際グノーシアでは、あまり何も考えずとも誰かをコールドスリープできてしまったり、そもそもNPCたちもかなり感情的な好き嫌いで疑ったり庇ったりをしている。(なんなら冷静で論理的なキャラクターのほうが敵を作りやすくむやみに凍結される)
 この「人狼ゲーム自体の手段化」が、前述したような説明で時に悲劇の生まれる理由かもしれない。

 とはいえ、ではどのように勧めればよいかは難しいところである。「人狼って眺める分には楽しいけど、自分でやるには他人から責められる感じが苦手」という人には向くかもしれない。「私」もそういう節がある。
 一方で、グノーシアというゲームがプレイヤーを唸らせる所以は、「プレイ時間の大半を占める人狼」以外の箇所にある。そしてその物語の妙たる箇所こそ、ネタバレそのものになってしまうので何も説明できない。

 やはり、「NPCを相手にひたすら人狼を繰り返すゲーム」とでもいうほかない。言い添えるならば「『人狼』にあたるものが『グノーシア』と呼ばれる洗脳された人間で、何がなぜ人間を洗脳して人間を滅ぼそうとするのか、という謎が絡んでくるSFです」といったところだろうか。

『グノーシア』とは何か?

 この記事を読んでいるのはグノーシアをクリアした人間だけだと想定して書く。「私」は前述の「SF要素を言い添えておく」のもまったく的を射ていないと思っている。
 というか、実際「グノーシア」というゲームは『グノーシア』の正体や目的を暴くことを真の目的とはしていない……という感覚である。
 途中まで(特に夕里子が色々と教えてくれるあたりまで)は、『グノーシア』ないし『グノース』なる存在がループの元凶なのではといった印象がある。謎の存在には違いないし、作中での理屈や説明付けは行われている。
 が、実のところ『グノース』や『グノーシア』はそれ自体がきっかけとは言えないし、主人公たちは『グノース』を滅ぼそうとしているわけでもない。これは人間とグノースの戦争の話ではない。

 まるで『グノーシア』との戦いの日々のように話を始めておいて、最終的に『グノーシア』自体に謎の中心があるわけではなく、しかしお話のために『グノーシア』を必要とする。
 すなわち”マクガフィン”と呼ばれるものに、『グノーシア』は当てはまるように思う。

 ここで少し別の作品の話をする。

 プレイ中に『グノース』の目的が明かされた際、「私」の抱いた率直な感想が「人類補完計画じゃん」だった。
 人類補完計画が何なのかはエヴァンゲリオンを参照……していただくのは大変なので非常に雑な説明をすると「人と人、生きている人も死んでいる人も垣根をとっぱらってみーんなどろどろに溶けて一つになったら幸せだよね!」みたいな計画のことである。
 さておき、エヴァといえば3月の完結編の公開が記憶に新しい。
 決してエヴァに明るくはないが「シン・エヴァ」を見、ネット上の考察を読み漁った際に”マクガフィン”という言葉を知った。つまり「エヴァとは何か」「使徒とは何か」といった謎自体に重要な意味はなく、動機づけのための動機、謎のための謎なのだという見方である。
(そのとき拝見したのは「『エヴァとはマクガフィンだ派』にも、『そうではない派』にも納得を用意した映画だった」という趣旨の感想だったように記憶している。)

 このシン・エヴァを3月に観終えた上で、1~2月にプレイしたグノーシアのことを思い返したとき、やっと「グノーシアにおける『グノーシア』とは、エヴァにおける『エヴァ』や『使徒』やそのほか色んなもののような印象があるな」と思い至った。
 『グノーシア』それ自体は動機のための動機、グノーシアのためのグノーシアなのかもしれない。

 この理屈でいくと、やはり「『グノーシア』という洗脳された人間の謎が絡むSF」という解説で合っている気がしてきた。マクガフィンの奥にある肝の部分を最初から他人に説明する無粋もない。
 だいたい、肝だけを説明して説明ができるなら物語は物語になっていないだろう。

私、とは何か?

 さても「グノーシア」というゲームの恐ろしいところは「主人公=プレイヤー」という印象付けの強烈さにある。自分自身の体験として、感情をぐらぐらと揺さぶられる。作中キャラクターや便宜上の主人公ではなく「私」へ働き掛けてくる仕組みが抜群に上手い。

 これは単に物語の筋書きだけによるものではない、と思う。
 グノーシアは作中主人公の没個性化というか、「私と『私』の間のノイズを減らすこと」に関して徹底している。それは最終的にメタ視点からセツを救い上げる真エンドを鑑みれば、とんでもない計算で意図的に仕組まれているのだろう。

 偉そうなことを言ってゲーマーを名乗れるほどのゲーマーではないのだが、「主人公=プレイヤー」という構図で進めるゲームが少なくないとは知っている。最近はキャラクターメイキングの機能が充実して、フィールドマップを自由に動き回る主人公を自分の分身と思って操る例が多いだろう。(敢えて自分とは別のキャラクターを作ったり、好みの格好をさせて楽しんだりというプレイスタイルもある。)
 一人称視点で語られるADVも、主人公名を自由に設定できる機能も新しいものではない。選択肢をプレイヤー自身が選ぶという行為に、本を読むのとは異なる「ゲームとしての体験」があり、大なり小なり「作中主人公(時には主人公以外のキャラクターも)=プレイヤー」という要素を含むものである。

 だが実際、「私」は普段あまり「主人公=私」とは思い込めない。
 これは限られた選択肢や一定のシナリオの中で、現実の「私」にはどの選択肢も選び取れないと感じるからであったり、そもそも場面や能力が突飛すぎて「私」とはかけ離れているから、であったりする。
 加えてネックになるのが主人公の口調であり、名前設定可能なタイプのADVでも、選択肢やモノローグとして「主人公の語り口調」が出てきてしまう。一人称や二人称は多少設定できたとしても、細かな口調までは、ゲームの限られたシステムで1億人のプレイヤーに合わせることはできない。
 それでも、「私」は主人公を自分以外のキャラクターと捉えて遊ぶことができるし、それはそれでゲームの魅力であると考えている。RPGなら自分以外の何かになれる点こそ肝であろう。

 この点、「グノーシア」では次のように解決されている。

 例えばラキオを疑いたいと「私」が思えば、ウィンドウに表示されるのは
「ラキオを疑っていることを告げた」
である。

 決して「ラキオが怪しいよ!」でも「ラキオが怪しいと思うなあ」でも「ああ? ラキオが怪しいに決まってんだろ」でもない。(引き合いに出してごめんねラキオ。)
 ほかにも「しげみちは嘘をついている、と告げた」とか「ステラを信頼している、と告げた」とか、そんな具合である。
 これで特定の口調があてられていると、作中の私と外側の「私」の間にノイズのようなものが生じ、途端に「主人公≠プレイヤー」になってしまう。

 プレイ中はあまりにさらっとしているので気にも留めていなかったのだが、いざクリアしてみて「セツと旅をしていたのはこんなにも『私』だったんだ!」と痛感したとき、このテキスト上の仕掛けが実はとんでもない効き目だったのではないかと感じた。
 なにしろ、ほぼ「テキストを読む」という行為で構成されているゲームである。文章送りの速度が非常に細かく設定でき、テンポよく会話が展開し、いかにストレス無くテキストを読ませるかに特化しているが故、テキストによって知らず知らず頭の中をいじくられている。
 兎角仕掛けというやつは仕掛けてあると悟らせないのがうまいに決まっている。グノーシア、本当に恐ろしいゲームだ。

「セツ」とは私にとって何か?

 同様のことが性別「汎」の存在にも言える。汎とは後天的に選びとれる性別であり、男でもなく、女でもないとされている。
 プレイヤー側の性別を自由に設定できる、という点ももちろん大きい。「私」は自分の性別の自認と同様、女性を選ぶことがほかのゲームでも多いが、それでも「男性キャラクターとの差異化のために付与された女性的と呼ばれる要素」みたいなものが馴染まないケースはある。そもそもいずれかを選ぶ必要に迫られること自体、どうにも馴染まないという方もいるだろう。

 その上で、主人公の性別をどう選んだにせよ、(レビューサイト等でも散々言及されていることだが)主人公とセツの関係が汎性の存在で絶妙な描かれ方をするのだ。

 ゲームスタート時から主人公を導き、頼もしく協力し、時には別陣営で舌戦を繰り広げ、……そもそも「私」がループに巻き込んでしまった唯一無二の相手、セツ。セツは性別「汎」である。
 作中、議論中の雑談でセツが「私は汎だから恋愛の話には乗れないけど」と発言する場面がある。後述するSQのリアクションからも、どうやらこのSF世界の一般認識として「汎=他者と恋愛関係を結ばない」とされているらしい。(個人的にはこれはこれで、『自身の性別認識』と『他人との関係』は別なのでは……とやや引っ掛かるのだが、おそらく「そういうSF世界設定」なのであろう。)
 一方で前述の台詞には「誰かに気持ちをあずけたいのは分かる」といった発言が続くし、別の場面ではシナリオ上で主人公と恋人同士のフリをするケースもある。

 この「恋人同士だと言う」場面では、SQが驚いた顔をして「汎なのに!?」と驚く。
 ここに、セツが汎だからこそのニュアンスがある。
 もっと言うと、セツが「男」や「女」だった場合には余計なニュアンスが滲んでくるように思うのだ。つまり、仮に主人公の設定が「男」だったとき、セツが「男」なら驚かれるのか?
 「女」なら驚かないのか?
 その逆なら? という問題である。

 このくだり、何食わぬ顔で「魂でつながり合っているからね」と言ってのけるセツと主人公の間には、きっと方便だけではない魂のつながりが存在する。まさに「魂のつながり」と呼ぶに等しくて、便宜上恋人と説明をしているけれど、そうとも言えるしそうではないとも言える。どちらでもなくてどれでもある。
 ただ「私」とセツという人間のあいだで、同じ命題を共有しているという点を非常にフラットに印象付け、受け取り方をプレイヤー側に任せてくる。これが「汎」という設定の一側面だと感じる。
 おかげでますます、「私」は自分の感じたままの関係をセツとの間に築けてしまうし、どんどん「私」が主人公と同一になっていく。宇宙船に乗り込んだ一人の人間になっていった。

私と「私」とグノーシア

 エンディングでセツが扉の向こうへ行ったとき、枯れるほど泣いた。泣きじゃくった。そんな風に守ってほしかったわけじゃないと思った。「私」がセツに託したもの、託されたもの、一緒に握ってきたもの、すべてそういう恩の返され方をしたかったわけではないと思った。
 あまりの無力感と愕然とした気持ち、だけどセツの背中の格好良さにガタガタと震えて泣いた。あのとき、ぽっかり一人分の空いたタイトル画面を前にして、寂しさと無力感に苛まれたのは間違いなく「私」だった。
 ジナが「会いたい人ならまた会える」と言ってくれたのがどれほど救いだったか!

 真エンドに至ったとき、本当にお別れなのだと思った。
 セツが「私」に向かって「君」と呼び掛けてくれたとき、これでよかったのだと思って、でも本当の別れが寂しくてたまらなかった。
 セツと旅をしたのは間違いなく「私」だ。「私」はこれからニンテンドースイッチの画面を落として、セツのいない宇宙船に戻っていく。自室のアパートへ帰っていく。
 だけどどうか、できれば、虫のいい話だけれど、セツと一緒にいた私はそのままセツと一緒にいてほしいと思った。旅をしたのは「私」という強烈な自覚があるくせ、なにしろ「私」はセツの幸せを願っているから、そう思わずにいられない。すべてを覚えている私が、セツと一緒に旅をし続けてほしい。
 「私」がゲームの外へ戻ったら終わりだなんてそんなのあんまりじゃないか。

 これだからやっぱり、主人公とプレイヤーを同化させるゲームは苦手なのだ。ノイズが多少あるくらいでちょうどよいのかもしれない。人生ひとつ分の出会いと別れを、こう何度も実体験してはいられない。
 別のゲームタイトルを遊ぼうとするたび、スイッチの画面にグノーシアのアイコンを見ては気持ちの奥の方がひりひりとする。セツはどうしているだろうかと思って、今はまだ別れが生生しくて、ちょっと2週目の続きには入れないでいる。

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