見出し画像

「きもちわるーい」と言われながら「愛」を語る

子ども  「古Tっていつも色んな人に声をかけながら歩いているよねー」
ぼ く  「そりゃそうさ!僕はみんなを愛しているからね!」
子どもたち「うわー気持ち悪い!(笑)」

この前、僕と子ども達は休み時間に交わした会話だ。

「僕はみんなを愛しているからね!」

こんな言葉を僕は前まで簡単に語れなかった。
しかし今では「みんなを愛してるよ」って力を抜いて語れるようになった。
それは僕の中に「愛」という言葉の意味がストンと落ちたからだ。

教師にとって大切な力 それは子ども達を愛する力である

あなたがもしそんなことを言われたらどう感じるだろうか。
前までの僕なら

「子どもたちを愛する!?聖人君子じゃあるまいし全ての子どもを愛するなんてことはできないよ」

そう思っていた。
「愛」という言葉。
この言葉はとても重くて、すごく深いものに感じられる。それゆえそんなものをやすやすと自分が語ってはいけないと思いがちだ。
僕もそう思っていた。
でもある言葉に出会ってから僕は「子ども達を愛する」という言葉の意味をすごく重く捉えすぎていたことに気づく。「愛」とはそんなに重くもないし、固くもない。もっと軽やかで誰も語っていい言葉だった。

愛の反対は憎しみではなく無関心である。

この言葉を聞いたことがあるだろうか?
この言葉の意味をひもといていく。

人を愛すること  ←→  無関心

というならば

人を愛さないこと  =  無関心

ということになる。…とするならばこのように考えることもできるだろう。

人を愛する  =  人に関心をもつ

「人に関心をもつこと」それが「人を愛するということ」だ。
このことに気づいた時、「愛」という形のないものが僕の中にストンと落ちた。

「おはよう!」
このように子ども達に自分から声をかけること。

「元気か!?」
と言って頭にそっと触れること。

「それおもしろいな!」
と言ってゲラゲラ笑うこと。

「なにやってるんだー!」
と言って脇の下をくすぐること。

クラスの子であろうがクラスの子でなかろうが関係ない。
話したことがあろうがなかろうか関係ない。
相手が僕を好きだろうが嫌いだろうが関係ない。

声をかける。コミュニケーションをとる。手を振る。ちょっかいを出す…
これらの行動はすべて
「僕は君に関心があるよ!」と言うなによりの証だ。

僕は君のことが好きだよ。
僕は君のことを見ているよ。
僕は君と話がしたいよ。
僕は君と話すと楽しいよ。

そう思っているならば、用事がなくても関わりにいきたいと思うだろう。
その子に関心をもつこと。それはその子を愛しているということだ。
だから僕は
「僕はみんなを愛してるからなー」
なんて割と真面目に子ども達に伝えることができる。

「うわー気持ち悪い!!」

何て言葉が返ってくるけれども、子ども達はみんな嬉しそうだ。

「君たちを愛しているよ」なんて語る大人はなかなかいない。
でもそういう大人がいることはとっても大切なことだと僕は勝手に思っている。

ちなみにいろんな人に声をかけながら歩き回っているうちに
僕もいろんな子に声をかけられるようになった。
その様子を見た僕のクラスの子どもたちが
「古T、あいされてるねー」
うん。そうだね。その通り!

先生にはしっかりとあいさつをする!
そんな堅い関係じゃなくてもっとふわふわしたゆるい関係。
そういう関係ってすてきだなぁと思う。

あいさつされたら、あいさつをしっかり返しなさい!
相手よりも先にあいさつをしなさい!

そんなあいさつ運動があるけれども、それって本当に意味がないなぁと思う。
しなきゃいけないから声をかけるんじゃなくて
声をかけたいから声をかける。
そんな風にお互いが「関心をもち合えること」が「愛し合う」ということだろう。

「愛する」っていう言葉の意味を重く捉えすぎない。
この感覚が最近の僕をぐっと成長させている気がする。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?