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繊細な心にそっと寄り添い、包み込んでくれる 『檸檬』梶井基次郎
梶井基次郎の「檸檬」を初めて出会ったのは、体調を崩した日のことだった。数日間、微熱が続いていた私は、気が参ってしまい、孤独感に襲われていた。気晴らしに本を読みたいと思ったが、本を読む気力はなかった。
布団で横になっていても退屈だったので、朗読を聴きあさっていた。そのうちの一つが、梶井基次郎の「檸檬」だった。人の声によって紡がれていく文学の世界に、私は惹き込まれた。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――(中略)以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪まらずさせるのだ。
この作品に漂う孤独感や哀愁が、私は好きだった。繊細に揺れ動く感情を、ひとつひとつ、丁寧に掬ってくれているようで、居心地が良かった。
感情を言葉にする。行き場のない自分の感情に居場所を作る。それによって、こんなにもほっとするのだと知った。
朗読を聞いていると、心底安心した。語り手の声によって、一つの世界が紡がれていく。孤独や焦燥で混沌とした感情が、大きなエネルギーのようなもので包み込まれているような感覚を覚えた。
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察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ということが必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚こびて来るもの。――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。
生活がまだ蝕ばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色(ひすいいろ)の香水壜(こうすいびん)。煙管(きせ)る、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。
私は嫌なことがあると、書店や文房具屋に入り浸ることがある。いろんなものを眺めているうちに、気づいたら1〜2時間経っていたり、結局買っちゃったりする。でもその時間が楽しくて、心を癒してくれるのだ。
なんとなく疲れたなと感じたとき、一旦立ち止まって、心を満たしてくれるものを用意しておくと、生きやすいのではないかと感じる。それは本だったり、一杯のココアだったり、甘いものだったり、本だったり、形はさまざまだ。私にはもう少し、心を満たしてくれるものに触れて、ひと休みする時間が必要なのかもしれない。
本を読んでいるうちに、気の合う友達と話しているような気持ちになった。私は改めて、本を通じて対話をできるという、読書の楽しみ方を思い出した。
心が乱れた時も、本は心を癒してくれる。私は心に響く物語と出会うたび、自分の居場所が、一つ増えたような気がする。どんなに心が遠くへ旅をしても、本を開けば、いつだって、言葉の世界が広がっている。本という居場所へ、また帰ってくることができる。
現実でいろんな感情を経験することで、言葉の世界が彩られていく。そう思うと、再び歩き出すための勇気をもらえる。