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お守りの香り

千早茜の『透明な夜の香り』を読んだ。人並外れた鋭敏な嗅覚を持つ調香師が、特別な悩みを持つ人のために特別な香りを作る話。香りは時に人を幸せを贈り、時に不幸をもたらす。


「先生の言う永遠とは、命が続く限りという意味での永遠ですか?」
「そうだね、一香さんの認知している世界が終わるまで、だね。そういう意味では誰もが永遠を持っているんだけど、なかなか気づかないんだ。そのひきだしとなる香りに再び出会うまでは」

千早茜『透明な夜の香り』


同書によると香りは海馬に直接届いて、永遠に残るらしい。思い当たる節がある。わたしが再び出会ったひきだしとなる香りは、普通に商品化されていた。


たまにはちょっといい入浴剤を使いたい、と思ってテスターを嗅いで選んで買ったもの。テスターを試したときには、好みの香りだな、と思って買っただけだったが、家に帰って風呂の蒸気の中でそれを垂らすと、突然幼少期の記憶に引き戻された。ぐぃーんと引っ張られて、強制的に、故郷にあった、実家の玄関の映像を見せられる。香る蒸気が幻影を見せるかのように。


その入浴剤の香りの構成はシンプルで、ゼラニウムとカモミール。精油で香り付けされている。にもかかわらず私が実家の玄関での記憶に手繰り寄せられたのは、その香りのどこかに、りんごのにおいを感じたからだ。秋になると木箱に入ったりんごが玄関に置かれていた。外はほどよく冷えているから、自然の冷蔵庫になってちょうど良かったのだ。


調べてみると、カモミールは甘いりんごの香りがすると言われているらしい。これはりんごのにおい…と思ったら、本当にりんごに似た香料だった。ちなみに、ゼラニウムはローズにも似たフローラルな香りだそう。


木箱に入ったりんごが置いてある玄関(厳密に言うと、風除室)で、特にに私にとっていい思い出があるわけではない。寒い外から帰ってきて、やっと家の中に入れると思った空間。出かける時に、準備が遅い家族をまだかな~と待つ空間。何気ない日常生活でただ通過するだけの空間だった。その空間に、季節限定で漂っていたにおいなのに「ひきだしの香り」によってこうも強く思い起こされる。何年も嗅いでいないし、もう嗅げないのに、一瞬でわかるそのにおい。


ゼラニウムとカモミールの入浴剤は、単に日々の疲れを癒すリラックス用に買ったのに、郷愁に浸る用の入浴剤になった。幸運にも、入浴剤のほかにも同じ香りでいろいろな製品が出ていて、ボディソープとハンドソープも使ったことがある。出張先のハンドソープが固形石鹸なのが嫌で、故郷の香りを持って行ったりもした。


慣れない土地を出歩いても、ホテルに帰って手を洗うと、幼い頃のなににも侵されることのない安全な記憶が、えもいわれぬ安心感をくれる。この香りは、わたしにとっては大切なお守りだ。



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