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古賀史健

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古賀史健の note、2018年以降のぜんぶです。それ以前のものは、まとめ損ねました。
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2022年5月の記事一覧

あなたはずっとそうだった。

あなたはずっとそうだった。

太ったなあ、と思う。

この10年以上のあいだ、いつだってそう思っている。写真を撮るたびに、いや正確にいえば写真に撮られるたびに、そう思っている。そこに写る自分の姿を見て、太ったなあ、と思っている。

10年以上にもわたってそう思っているということは、自分のなかでの基準点は、15年前や20年前に設定されているのだろう。あるべき自分像は、30代の前半あたりに置かれているのだろう。当時も痩せているつも

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旅することの、気持ちよさ。

旅することの、気持ちよさ。

うちの犬は、男の子である。

男の子であるからして彼は散歩中、電柱やその他の目印っぽいところに、おしっこをかける。器用に片足を上げておしっこをかける。むろん尿意はあるだろう。けれども尿意とは別の心理的作用によって、さまざまなる場所に少量のおしっこをかけてまわる。いわゆるところのマーキング、である。

彼からすれば「来たよ」のしるしなのかもしれないし、「いるよ」の合図なのかもしれない。あるいはまた、

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箝口令が解かれるとき。

箝口令が解かれるとき。

情報解禁、ということばをしばしば目にする。

静かに水面下で進行していたプロジェクトが、誰にも言っちゃいけなかったプロジェクトが、ついに「言ってもいい」状態になった。むしろ「積極的に言ってまわるべき」状態になった。そういうとき、主にソーシャルメディア上で情報解禁の語は使用される。「新曲が出ます」とか、「映画化します」とか、「ドラマ化します」とかの、でっかいお知らせに合わせて。

しかしながら一方、

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自分のいまを定点観測できる場所。

自分のいまを定点観測できる場所。

つくり置きはしない。

日々のnoteを続けるうえで、なんとなく自分に課している決まりごとです。その日の投稿は、その日に書く。ストックを持つことをせず、書いたそばから公開していく。もちろん何本かのつくり置きがあれば、ラクな日は増えるでしょう。体調のよくない日にはそれに頼ることができますし、公私のさまざまな「きょうはとても書けない!」な日にもストック分で更新することが可能です。ありますよ、そりゃあ。

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答えよりも選択肢を。

答えよりも選択肢を。

先日に、別の場所でもお話ししたことだけれど。

子どものころ、ぼくはプロレスラーになりたかった。それが駄目なら漫画家になりたかった。理由はとてもシンプルで、プロレスと漫画が好きだったからだ。まわりの友だちはどうだったんだろう。プロ野球選手にあこがれるヤツもいたし、宇宙飛行士にあこがれるヤツもいた。「しょうらいの夢」を言わされる時間には、スパイや探偵も人気だったと記憶している。

いまになって思うの

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身近にある不便をさがせ。

身近にある不便をさがせ。

時代はマイナンバーである。

本日はじめてマイナンバーカードを用いて、コンビニで印鑑証明書を発行した。セブンイレブンいい気分。なんてすてきなコンビニエンス。こんな簡単に発行できちゃうものなのか。ありがたいことだよとほくほく顔で店をあとにしながら、ふと立ち止まる。

これ、便利な時代になったというよりも、いままでが不便すぎたのではないだろうか。おれたちはこれまで、不当な不便を押しつけられていたのでは

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ちょうどいい人間であること。

ちょうどいい人間であること。

可もなく不可もなく。

一般にこれは、あまりよろこばれることのない言葉だ。人物的な評価として「可もなく不可もなく」とされるのも悲しいし、仕事の評価が「可もなく不可もなく」であっても、やはりさみしい。人は「可」がほしいものである。

しかしながら現在、オフィスの窓を開け放って仕事をしながら「なんてちょうどいい気候だ」と思った。暑くもなく、寒くもない。エアコンを動かす必要もなく、半袖のシャツを着て仕事

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ぼくの考えるおじさんの定義。

ぼくの考えるおじさんの定義。

反面教師というほどではないにせよ。

若い人でありたいなあ、と思う自分がいる。一方でまた、「じじい」にあこがれる自分もいる。老害なんてことばをとっくに飛び越えた、面倒くさくていとおしい、少年マンガに出てくる仙人みたいな「じじい」だ。しかしながら若い人がそのまま「じじい」になることはできない。その道程にはかならず「おじさん」の時代が含まれる。ここを避けて、どうにか「じじい」へとジャンプできないか。そ

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誤読について考える。

誤読について考える。

誤読について考える。

たぶん誤読には、おおきくふたつの種類がある。ひとつは、誤解を招くような書き方をした場合に生じる誤読。誤解を招く表現どころか、なにを言わんとしているのかまるでわからない文章というものも、当然ある。これは完全に書き手側の責任だ。一方でまた、読み手側の問題と思しき誤読もある。「どこをどう読めばそんな理解になってしまうのか、まったくわからない」というタイプの誤読、理解ならぬ「曲解」

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趣味よりもほしいもの。

趣味よりもほしいもの。

「あなたの趣味はなんですか?」

そんなふうに問われると、やや返答に窮する自分がいる。言おうと思えば言えるのだ。「趣味は読書です」とか、「映画鑑賞です」とか、「音楽鑑賞です」とかのことばは。昭和の荒くれ者についてまわる「飲む、打つ、買う」の語になぞらえるなら、「読む、観る、聴く」だ。

けれどもそれらは、趣味というほどのものでもない気がする。ぼくの考える趣味ってのは、もっと特別というか、たとえば3

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それぞれの真剣を持ち寄って。

それぞれの真剣を持ち寄って。

きのう書けなかったことをいくつか。

数か月ぶりに「バトンズの学校」の受講生さんたちと再会して、驚いたことがある。見るからにもう、成長しているのだ。とくに今回の学校では、意識的に何人もの学生さんたちを受講生として迎え入れていた。この3月に大学を卒業し、社会人として働きはじめた人もいる。そういう世代の人たちは、「へえー!!!」と感嘆符を3つ付けたくなるくらい、大人になっていた。見た目もそうだし、話し

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またいつかの「ひさしぶり」を求めて。

またいつかの「ひさしぶり」を求めて。

「ひさしぶり」について考えた。

誰かと会う。会って最初に「ひさしぶりー!」と声をかける。なんなら照れずに、手まで振っちゃう。ほんの少しの気恥ずかしさを隠すように、「元気してた?」とか「髪切った?」とか「忙しそうだね」とかの、なんでもないことばを掛け合う。そうしてようやく緊張がほぐれ、あれやこれやの近況を報告し合う。

毎日会ったり、毎週会ったりしている人には、これができない。いつも近くにいてくれ

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あのころのファッション。

あのころのファッション。

すこーし、違うんだよなあ。

時代がそういうめぐりになってきたのだろう。このところ、いろんなところで「90年代」に焦点を当てた記事や創作物を見かける。かく言うぼく自身、それに絡んだテーマで何年か前、燃え殻さんと対談させていただいたことがある。

でね。ぼく自身がそれをやっちゃってるんだけど、こういう感じで「あのころ」を振り返るとかならず「90年代=渋谷系」って話になるんですよ。いやもちろん小室哲哉

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「やらなくてもいいこと」こそが、おもしろい。

「やらなくてもいいこと」こそが、おもしろい。

明後日の土曜、またみんなで集まる。

今年1月末に終了したはずの「バトンズの学校」で、補講を開催することになったのだ。もちろん当初は、そんな予定などなかった。けれども1月末に予定していた懇親会が、コロナ禍により延期となったままだった。それで、もうそろそろ集まっても大丈夫だろうということで集まることにしたのだけれども、せっかくだったら懇親会の前に「補講」をやってしまおう、という判断によって現在、その

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