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箝口令が解かれるとき。

情報解禁、ということばをしばしば目にする。

静かに水面下で進行していたプロジェクトが、誰にも言っちゃいけなかったプロジェクトが、ついに「言ってもいい」状態になった。むしろ「積極的に言ってまわるべき」状態になった。そういうとき、主にソーシャルメディア上で情報解禁の語は使用される。「新曲が出ます」とか、「映画化します」とか、「ドラマ化します」とかの、でっかいお知らせに合わせて。

しかしながら一方、たとえばぼくが「新刊が出ます」くらいの話を「情報解禁!」と銘打って告知することは、なんか違う気がする。情報解禁なんてことばを添えるまでもないというか、なにもったいぶってんだよというか、誰に止められてたんだよというか、さまざまのモヤモヤが残るのだ。

解禁が「禁止令を解くこと」の意であることからもわかるように、すべての関係者に箝口令の敷かれていた超ビッグプロジェクトにのみ、「情報解禁」の語は使用されるべきなのだろう。


どうしてこういう話をしているかというと、「情報解禁!」を口にする人々が一様にたのしそうで、ちょっとうらやましいのである。チームの全員でひとつの「秘密」を共有しているワクワク。誰にも知られないように、ちょっとだけコソコソと動く背徳感。情報漏洩しないよう、みんなが結束する一体感。そうしてとんでもない大事件が起こったかのように発せられる、「情報解禁」の四文字。感嘆符入りの「情報解禁!」にするなら五文字。

もちろんあるんですよ、ぼくにも。ある時点で「情報解禁」になるはずの、水面下で進めているいろいろのお仕事や取り組みは。

ただ、そこでの解禁のよろこびは、チームの仲のよさだったり、みんなでかけてきた時間の充実度だったり、ともに見ている未来のおもしろさだったりに比例するものなんだろうなあと思って、結論としては「そういうチームをつくっていきたいなあ、つくっていかなきゃなあ」と思ったのでした。