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旅することの、気持ちよさ。

うちの犬は、男の子である。

男の子であるからして彼は散歩中、電柱やその他の目印っぽいところに、おしっこをかける。器用に片足を上げておしっこをかける。むろん尿意はあるだろう。けれども尿意とは別の心理的作用によって、さまざまなる場所に少量のおしっこをかけてまわる。いわゆるところのマーキング、である。

たとえばこんなところにも

彼からすれば「来たよ」のしるしなのかもしれないし、「いるよ」の合図なのかもしれない。あるいはまた、先客の残したお手紙(マーキング)に対する「読んだよ」のご挨拶なのかもしれない。人間にはわからないさまざまの意味が、そこには込められているのだろう。


先週の木曜日、福島県相馬市を訪ねた。その詳細についてはこちらの記事にまとめられているので、ここでくり返すつもりはない。

ただ、2020年以来ひさしぶりの「旅」でもあった相馬市行きなので、あらためて旅というもののおもしろさについて考えた。

旅をする。どこでもいいから旅に出る。はじめての景色を見て、知らない場所を歩き、その土地の人と話し、土地のものを食べる。たとえマクドナルドのチーズバーガーだって、ロンドンで食べれば立派な「ロンドンの味」になる。コカコーラも、バドワイザーも、スターバックスコーヒーも。

そして後日、少しでも訪れたことのある土地をテレビや雑誌に見つけると、ぶわっと思い出がよみがえり、あたかも自分の出身地が紹介されているようなうれしさに包まれる。

この現象について長年考えていたのだけれども、今回思った。

要するにこれ、マーキングなのだ。旅することによってぼくらは(少なくともぼくは)、それぞれの地でマーキングしているのだ。いや、もちろんぼくらは犬とは違うので往来に放尿してまわるようなことはしないけれど、そしてマーキングする場所は旅先の地というよりむしろ自分の心なのだけれど、「来たよ」や「いるよ」や「ぼくもだよ」をそれぞれの地で刻み、結果としてみずからの分身をそこに置いて帰っているような、自分を分散・拡散するよろこびが、たぶん旅にはあるのだ。

ほぼ日さんの企画ではこれまで、気仙沼やネパール、北海道の帯広、そして今回の相馬と、いろんなところに出かけて行った。それぞれの土地に思い出ができ、友だちができた。自分のことを知り、友だちと思ってくれている人がそこにひとりでもいれば、それはもう「ぼくがそこにいる」と言っていいことなのかもしれない。

「浜の台所くぁせっと」のサバフライ

とりあえず相馬には、あきれるほどおいしかったサバフライをもう一度食べるため、また訪ねたいと思っています。