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誤読について考える。

誤読について考える。

たぶん誤読には、おおきくふたつの種類がある。ひとつは、誤解を招くような書き方をした場合に生じる誤読。誤解を招く表現どころか、なにを言わんとしているのかまるでわからない文章というものも、当然ある。これは完全に書き手側の責任だ。一方でまた、読み手側の問題と思しき誤読もある。「どこをどう読めばそんな理解になってしまうのか、まったくわからない」というタイプの誤読、理解ならぬ「曲解」である。

以前のぼくは、誤読させてしまうのは「すべて」が書き手側の責任だと考えていた。誤読の可能性を極限まで減らすことが実用文におけるライターの責務であり、その努力はどこまでも重ねていけるはずで、「誤読のしようがない文章」はありえるものと考えていた。自分がそれを書けているかは別として、少なくとも理屈の上ではありえると考えていた。

しかしながらソーシャルメディアの隆盛後、曲解という名の誤読は避けられないのだな、と思うようになる。ぼく自身はあまりそういうリアクションをもらうことはないけれど、いわゆる「バズった」ツイートや記事に寄せられたコメントを見ていると、どこをどう読めばそうなるのかわからない怒りの言葉が、追い切れないほどに折り重なっている。そうだよなあ、これまで可視化されていなかっただけで、どんな言葉であっても曲解してしまう人というのは一定数いるものだよなあ、なんて思うようになった。

けれども、だ。

そういうリアクションを示している人たちもまた、「誤解を招く表現」で、乱暴なコメントを寄せているのだ、たぶん。よくよく本心を聞いていけば、決してそこまで乱暴な思いを抱いているわけでもなく、ただ「書き方」がうまくないだけの可能性は、おおいにある。


ぼくは自分の本のなかで、「すぐれた書き手は、ひとりの例外もなく、すぐれた読み手(取材者)である」といった話を書いているのだけれども、書く力と読む力はほんとうに連動しているもので、雑に書く人は雑に読むのだし、逆もまた真なりなんだろうなあ、なんてことを考える。「書くこと」に比べると誰にでもできることのように思われがちな「読むこと」も、ほんとうは「書くこと」と同じくらい、むつかしいことなんだよなあと。


と、先日ある方からテキスト(具体的にはメール)によるコミュニケーションのむつかしさについてご相談を受け、「あのときどう答えるのがいちばんよかったのかなあ」と考えている途中に浮かんだお話でした。