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古賀史健

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古賀史健の note、2018年以降のぜんぶです。それ以前のものは、まとめ損ねました。
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2020年7月の記事一覧

万年筆と、大人になること。

万年筆と、大人になること。

万年筆について考える。

成人の日のお祝いに、あるいは高校や大学の入学祝いに。いまでは廃れているのかもしれないけれど、「ちっ。もっといいもの贈ってくれよ」くらいに顔をしかめられるのかもしれないけれど、かつて万年筆を贈る風習が確実にあった。大人になったしるしとして、一人前になるステップとして、万年筆が存在していたわけだ。

あれはどういう意味を込めた贈りものだったのだろう。最近、こんなふうに考えたら

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納品するということは。

納品するということは。

執筆中の本に書こうかと思ったけれど、まあ書くまでもない話だ。

ソーシャルメディアを見ていると、書き上げた原稿を編集者に渡す(送る)ことを「納品」と呼ぶライターさんが、割といる。【納品した】みたいな感じで彼らは書く。ぼくが使ったことのないことばだ。おそらく「納品」の語に仕事っぽさを感じての、あるいは職人的な落ち着きを意識してのセレクトなのだろう。あるいはまた、脱稿や入稿といった紙とインクの匂いが残

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もう少しのノイズキャンセリング生活。

もう少しのノイズキャンセリング生活。

フリーランス時代、自宅近くのワンルーム事務所で働いていたときのこと。

ぼくは仕事中、けっこうな大音量で音楽を流すことが多かった。音楽をかけていたら原稿に集中できない、という人もいる。ぼく自身も、そういうときはある。けれどもそれは「音楽のせいで原稿に集中できない」のではなく、「原稿に集中できていないせいで音楽が聞こえる」と言ったほうが(ぼくの場合は)正しい。実際、原稿に集中しはじめると、どんなに大

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満腹は、うれしくない。

満腹は、うれしくない。

何度も書いてきた話から、またはじめることにしよう。

二十代の一時期、ぼくはけっこうな赤貧を経験した。文字のとおりに「食えない」時期があった。からっぽの胃袋に無理やり水を流し込み、ひたすら横になった。眠ってしまえば空腹も忘れられる。睡眠は、最大にして最後の自衛策だった。

やがて金持ちではまったくないものの、たとえばラーメンにチャーシューを追加したり、煮卵付きの大盛りにしたりすることに躊躇しない程

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続編であって、続編でない。

続編であって、続編でない。

毎週、と言ってもまだ2週目だけど、『半沢直樹』を観ている。

おもしろい。とても、おもしろい。純粋な視聴者として「おもしれーなー」とたのしみつつ、つくり手サイドのことを考えては「すげーことだよなー」と感心しまくっている。

社会現象ともいえる大ヒットを記録したドラマの、待望の続編だ。お客さんは当然「半沢直樹」を期待している。「おもしろいドラマであること」よりも先に、「半沢直樹であること」を期待して

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夢のなかの原稿は。

夢のなかの原稿は。

今朝の4時か、5時くらいだっただろうか。

ああ、またこれがきたか。夢うつつのなかぼくは、若干うんざりしていた。夢のなかで原稿のアイデアがひとつ、浮かんだのである。いま書いている本に入れるキラーフレーズ(○○とは△△である、的なもの)と、それを語る文脈、わかりやすいたとえ話まで、浮かんだ。要するにたぶん、夢のなかで原稿を書いていたのだろう。

いま自分がベッドにいることはわかっている。そのアイデア

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麦茶が好きになった、それだけの話。

麦茶が好きになった、それだけの話。

最近、麦茶が好きになった。

きっかけは犬である。休日に犬の散歩をするときぼくは、だいたい2時間くらい歩く。こう言うとすごく運動をしているように聞こえるだろうけれど、地面や電柱や草むらを嗅いでまわるのが好きな犬に合わせての散歩だ。数十メートル歩いては、くんくん。また数十メートル歩いては、くんくん。かように休憩だらけの散歩とも言えるわけで、2時間だろうとそれを超えようとほとんど疲れない。

しかし春

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負けることと、学ぶこと。

負けることと、学ぶこと。

小学生のころ、友だちと取っ組み合いのケンカをした。

相手はSくんという、どちらかというとボーッとした、クラスでも目立たないタイプの男の子だった。取っ組み合いになった原因はもう、おぼえていない。そういうケンカになることは、当時のぼくにはよくあることだった。プロレスごっこの延長のように、ケンカがあった。

楽勝だと思ってSくんと組み合い、ぶん投げてプロレス技でも極めてやろうとした次の瞬間、ポーンと放

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弱さと親しさ、そして信頼。

弱さと親しさ、そして信頼。

以前、糸井重里さんがこんなことを書かれていた。

ぼくは、犬(ブイヨン)が人(奥さま)に抱っこされている姿を見るのが、とても好きだ。ふだんは得意げに走りまわり、なんでも自分の思いどおりになるかのように振る舞っている犬が、散歩から帰ってくると(足を洗うために)浴室までおとなしく抱っこされていく。その、観念したように抱かれていく廊下の姿を、とても愛おしく感じる。——糸井さんはたしか、そこから「弱さ」と

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「コーヒーがおいしい」のしあわせ。

「コーヒーがおいしい」のしあわせ。

やっぱりこれは、うまいんじゃないか。

きょうの昼、わりと好きなお店で日替わりパスタのセットを食べた。きょうの日替わりは、「完熟ミニトマトの冷製パスタ」とか、なんかそういうものだった。ところで冷製パスタということばを聞くと、ぼくはいつもイタリア料理が歩んできた道のりに思いを馳せる。だって冷製パスタって、早い話が冷やし中華のスパゲティ版だ。冷やし中華と同じ理屈でいえば、「冷やしイタリアン」と名づけら

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そうであってほしいと願っている。

そうであってほしいと願っている。

ようやく最終章に突入した。

Netflix で観てる『愛の不時着』の話ではない。去年の春からずっと取り組んできた原稿が、いよいよ最後の章に突入したのだ。書きながら「これ、ほんとに終わるんだろうか」と何度も途方に暮れた。まだぜんぜんその実感はないものの、最終章にきたということは、さすがに終わりが近づいているのだろう。もっとも、書き終えたらそこから推敲地獄が待っている。いまの段階でさえ、すでに「あの

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わたしにとってのハンマー投げ。

わたしにとってのハンマー投げ。

あれは異種格闘技戦的な発想なのだろうか。

スポーツファンのあいだではしばしば、「もし、あの人がほかの競技をやっていたら?」が話題になる。もし、イチローがサッカーをやっていたら。もし、中田英寿が野球をやっていたら。もし、室伏広治が格闘技をやっていたら。もし、山下泰裕が大相撲をやっていたら。……そういう妄想を膨らませては「○○界の歴史を塗り替えていたはずだ!」「とてつもない世界チャンピオンが生まれて

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連続ドラマに考える。

連続ドラマに考える。

困ったものだ。一昨日から『愛の不時着』を観ている。

おそらくはあと2〜3話で最終回。きょうだって朝の6時くらいまで観て、眠い眼を擦りながら出社している。ドラマ自体の感想やあれこれをことばにするのは最終回が終わってにしようと思うけれど、連続ドラマのおそろしさをいま、痛切に実感している。

Netflix 的なもので視聴する連続ドラマの場合、「やめどき」は自分で決めなければならない。そして「とりあえ

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わたしのブルーマンデー。

わたしのブルーマンデー。

高校生のころ、ぼくはサッカー部だった。

いまどきの学園漫画やネット記事を読むと、サッカー部の連中というのは、とにかくいけ好かない存在らしい。学校のなかでも威張っているし、カッコつけているし、いろいろチャラいし、最悪なことにモテる。そういう存在として、サッカー部は描かれる。

けれどもJリーグ誕生以前のぼくの時代、サッカー部はぜんぜんそんな存在ではなかった。とくにうちの高校は野球部が甲子園の常連で

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