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負けることと、学ぶこと。

小学生のころ、友だちと取っ組み合いのケンカをした。

相手はSくんという、どちらかというとボーッとした、クラスでも目立たないタイプの男の子だった。取っ組み合いになった原因はもう、おぼえていない。そういうケンカになることは、当時のぼくにはよくあることだった。プロレスごっこの延長のように、ケンカがあった。

楽勝だと思ってSくんと組み合い、ぶん投げてプロレス技でも極めてやろうとした次の瞬間、ポーンと放物線を描くように、それはそれは見事に投げられた。どうやって投げられたかもわからず、抵抗する術もなく、地面に叩きつけられた衝撃もほとんどないほどきれいに、つまりこちらに受け身をとらせながら、彼はぼくを投げた。

柔道の、払腰(はらいごし)だった。

まわりで見守っていた友だちが、わっと声をあげ、中空を一回転したぼくは地面に寝そべった状態でSくんを見上げた。柔道教室に通うSくんは申し訳なさそうな顔をしたまま、その場を立ち去っていった。身体の痛みはひとつもないものの、ぼくは猛烈な恥ずかしさに半べそをかいた。追いかけてSくんをつかまえ、ボコボコにぶん殴ってやろうなんて気は、まるで起きなかった。勝てる気がしないというより、また大恥をかく気しかしなかったのだ。



高校のとき、体育の時間に柔道をした。


中学の体育でも柔道の時間はあったものの、体育教師が陸上出身の先生だったこともあってか、中学での柔道の時間はほとんどプロレスの時間だった。一方、高校は違う。うちの高校は柔道の強豪校でもあり、柔道部の顧問が体育を指導していた。

「お前らみんな、一本背負いとか習いたいやろうけど」

柔道部の顧問は言った。お前らみたいな素人にあんな技をやらせたところで怪我するだけだ。しかも体育の柔道は3か月しかない。だからこの授業ではひたすら受け身の練習をしながら、足技をひとつだけ教える。その足技とは「支釣込足(ささえつりこみあし)」である。

お手本として、柔道部顧問が柔道部の生徒を投げてみせた。

まあ、おそろしく地味な技である。ぼくはがっかりした。そもそもオリンピックの柔道中継で、「支釣込足による一本勝ち」など聞いたことがない。ぼくが習いたかったのは、あのときぼくを宙に舞わせた払腰なのだ。


その後、柔道の基礎(襟や袖のつかみかた)を学び、受け身を学び、支釣込足の手順を学び、「使える立ち技は『支釣込足』のみ」というめちゃくちゃなルールによる乱取りがおこなわれた。相手がなにをやってくるか、わかりきっているのだ。負けるはずがないし、勝てるはずもない。ひたすら互いの足首あたりを蹴り合う、拷問のような乱取りだった。

そして順繰りに乱取りを続けるうち、柔道部の友だちと組むことになった。もちろん勝てるとは思わないが、相手だってなにもできない。負けるはずはない。適当に組んで、終了の声がかかるのを待とう。


組んだ瞬間、ポーン。


ものの見事に投げ飛ばされた。たぶん、身体が地面と水平になったと思う。警戒しきっていたはずの足技を、地味にもほどがある支釣込足を、一本技であるはずもない支釣込足を、きれいに食らって投げ飛ばされたのだ。びっくりもしたし、やはり恥ずかしかった。当たり前のようにおれは、柔道のことをなにも知らないし、プロ(それを専門にしている人)の世界をなにも知らないのだと恥ずかしくなった。


ま、ケンカはよくないけどさ。世のなかにもっと「乱取り」みたいな場所があるといいのかもなあ、と思うんですよ。怪我したり骨折したり財産を失ったりはしないけれど、見事な「負け」を経験できる場が。負けの数だけ人は謙虚になれるのだし、成長のきっかけもつかめる。負けたという思いが、すなわち学びなんだから。負けない場所に逃げてばかりじゃ、人間だめになると思うんですよね。