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万年筆と、大人になること。

万年筆について考える。

成人の日のお祝いに、あるいは高校や大学の入学祝いに。いまでは廃れているのかもしれないけれど、「ちっ。もっといいもの贈ってくれよ」くらいに顔をしかめられるのかもしれないけれど、かつて万年筆を贈る風習が確実にあった。大人になったしるしとして、一人前になるステップとして、万年筆が存在していたわけだ。

あれはどういう意味を込めた贈りものだったのだろう。最近、こんなふうに考えたらいいんじゃないか、という答えを思いついた。

万年筆を贈ること。それは「鉛筆からの卒業」である。なにを書いても消すことのできる鉛筆を卒業して、消すことのかなわない万年筆を、これからきみは使うのだ。自分のことばに、それだけ責任を持たなきゃならんのだ。だって、きみはもう子どもじゃないのだから。

もしもそんなことばと一緒に万年筆を贈ってくれる大人がいたら、高校生や大学生当時のぼくは、もっとことばを大事にしていたかもしれない。そしてなにより、手渡された万年筆を自分の分身のように大事にしていたかもしれない。


そう考えるとツイッターやその他のソーシャルメディアは、かなり鉛筆的なツールだ。鉛筆でじゃんじゃんアイデアを書き殴っていくことも大切だけれども、ぼくはなるべく——人の目に触れるものについては——万年筆のつもりで書いていきたい。消せないものとして、責任をもって書いていきたい。

ほんとはここの note でも、消してしまいたい投稿とか、けっこうあるんですけどね。