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#noteでよかったこと
noteを「読む」からnoteで「会う」へ
なんとかエコノミーみたいな言葉はメディア界隈の人たちが、つい吸い寄せられてしまうのだけど、たまに芯を食ってるものもある。あ、難しい長い話ではないので。
「パッシブ・エコノミー」って聞いたことあるだろうか? 僕はなかった。なぜなら自分がさっき思いついたものだから。
passiveは文字通り「受け身」「受動的」ってこと。だから「受け身で回る経済」。
いや、ほらもう情報摂取するのもモノを買うのも、
羊とヤギをめぐる冒険(八重洲地下街2019)
朝、起きたらヤギになっていた。
これが12月のある朝なら、ちょっとした短編小説のはじまりにもなる。だけどそれは11月の終わりのある朝で、残念なことに12月にはまだ少し早かった。やれやれ。
11月の終わりのヤギは物哀しい。人々はウールのリブ編みセーターなんかを着はじめる。街には少しずつ羊たちが増える。けれどもヤギの姿は見当たらない。
でもまあヤギはそういうのに慣れてる。とくに何も思わず、指定さ
noteでたどる自己紹介
そういえばnoteで自己紹介的なものを書いたことがなかった。
noteさんが書きなさいと仰せられ推奨されているプロフィールタブすら長らく設定してなかった。ダメですね。
そもそも自己紹介は苦手分野なのだ。よくみんなあんなふうにスマートに自己紹介できるなぁといつも思う。流れるような自己紹介は僕にとってするものじゃなく見るものだ。
なんで苦手なのか。たぶん要素が中途半端に多すぎる。あと、振り幅も無
共感ばかり追い求めたくない
「共感」って怖いなと思う。え、なんで? 共感してもらったほうがいいじゃん。共感されるのってうれしいし、共感できるものに出会いたいよね。
そんなふうに感じる人が多数派なんだろうな。そこを否定するわけじゃない。
だけど、個人的には共感を絶対的なものにできないし、したくないんだ。自分のことであっても他者のことであっても。
少年Bさんのツイートもそうだった。
僕は少年Bさんの、辞書を引いて新しいコ
noteが大人の教科書になってる話
朝からマジであかんなと思った。表現があれなのは許してほしい。心の声だから。
何があかんのかというと日本の文章教育(書く技術、ライティング)だ。小学校にまで遡ると「作文」「感想文」と呼ばれてるもの。いまさらだけど。
だいたい「作文」「感想文」って何? ものすごくふわっとしてる。教える側は「思ったことを書きなさい」「大事に感じたことを書きなさい」ぐらいのことしか示さない。
具体的に踏み込んだとし
noteのおかげで本当に読者がいた
雑誌のライター時代もそうだったけど、書籍のライターをやっていても「読者」を感じることって実はほとんどない。
発行部数何万部の雑誌でも、重版がかかった本でも。
もちろん、現実に雑誌や本が売れて(何かの理由で必要としてくれる人が買ってくれて)いるから仕事が成り立ち、それは読者がいることに他ならないのだけど書き手には「読者がいる実感値」がないのだ。
読者を想定しないとかそういうことではもちろんない
プロでもうれしいこと
ずっと仕事の原稿に埋もれてると息してない気がしてくる。
書籍の場合7万字とか10万字のテキストを掘り起こすように書く。なんていうか一人でヘッドランプを頼りにほの暗い坑道に入り、テキストの鉱山の奥深くに潜って、鉱脈を見つけてはコツコツと掘っていく感じ。
そうして採掘されたテキストをトロッコに積んで運び出し、構成して編集して本になり誰かの心の火を灯すことだけを考えて黙々と書く。
それなりに長くこ
人と人の関係で仕事したい
やばいなと思う。いい意味のほうのやばいじゃなくてだ。
仕事はしている。だけど「仕事をしている」だけになってるんじゃないか。そこがすごくだめな感じがする。この人なにを言ってるんだろうと思われるかもしれないけど。
このまま「仕事の関係だけで仕事をしていていいのだろうか」とあらためて思ったのだ。いや、うすうすは思ってた。
ちょっと前のnoteのこの記事とかを読んで余計にそう思ったのだ。ああ、いま自