共感ばかり追い求めたくない
「共感」って怖いなと思う。え、なんで? 共感してもらったほうがいいじゃん。共感されるのってうれしいし、共感できるものに出会いたいよね。
そんなふうに感じる人が多数派なんだろうな。そこを否定するわけじゃない。
だけど、個人的には共感を絶対的なものにできないし、したくないんだ。自分のことであっても他者のことであっても。
少年Bさんのツイートもそうだった。
僕は少年Bさんの、辞書を引いて新しいコンテクストを知った密かな喜び的な「Bさんみ」が好きなのだけど(たぶん1ミリも伝わらない……)、それって「共感」かと言われればちがう気がする。
端的に言えば「Eureka」、あった! という感じ。
どんなところにいても、どんな人に出会っても、違う世界の見え方、違う考え方、感じ方。そういうのが「ある」ことを知れるのが好きなのだ。だから旅するみたいに生きてたいのかもしれない。
同じものを見て、同じことを感じる「共感」もいいし大事なんだけど、同じものを見て違うことを感じるのを「共有」できることは、もっと大事。
これってすごくわかりにくいんだけど。
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少年Bさんも言及されてたみたいにnoteは、わりとそういう「違い」がいろいろ入り混じりやすいプラットフォーム、メディアだし、そこがnoteらしさの大事な要素にもなってると思う。
ふつうに生きてたら出会わない、自分の共感世界とは違った「何か」がフラットに目の前にある。
その「何か」について、いろんな人が「こんなふうに見える」「こう感じる」というのを自分の言葉、自分の表現で伝える。
それは正しさの主張でも、共感の味方づくりでもなく、ただただいろんなものがある「豊かさ」でしかない。
何が何でもすべて共感しなくていいし、そんなのは原理的に無理。だからって共感できないから混じらない、話聞かないだと人生は平板すぎてつまらないと思うんだ。
共感できなくても「へー、そういうのもあるんだ!」って、馬鹿にするんじゃなくて純粋におもしろがれたり、「Eureka」な気分になったり、そこから触発されて何か生まれたり。
共感も排除も超えて、いろんな人がいて、いろんなことがある。
人と生きものに危害を加えるものでなければ、そこをまるっと肯定できる世界が僕はやっぱり好きなんだ。