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熊にバター(行き場のない掌編集)

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日常と異世界。哀しみとおかしみ。行き場のないことばたちのために。
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#人生のおかしみと哀しみ

婚約の鯵

婚約の鯵

土曜日の区役所は、なぜだか酷く混雑していた。

僕らは、いったいどの窓口に行くべきなのか。というより、どの用紙に何を書くべきなのかも分かってなかったので、 朝の新宿駅のような人の流れを前に呆然とするしかない。

あちこちで人々が何かを訴え、区役所の職員も首を振ったり、手に何かの用紙を掲げてどこか指差したりしている。

「来る日、間違えたかも」

僕がつぶやくと

「こんなもんじゃないの」と

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苺の漬物だけは無理だった社食の思い出

苺の漬物だけは無理だった社食の思い出

本社はどこですか? と尋ねる社員の群れ

これは罠だと叫ぶ課長を見つめるZoom越しに
苺の漬物だけは無理だった社食の思い出
新人の頭の上で銀のタライが揺れている
町で領収書を配ってるお姉さんたち

アポイントの抽選に外れて留守番する
開かないノートPCとゴミ箱の瞬間接着剤
会議室にテディベアを並べる係
エレベーター表示がバグってみんなで見惚れてる
そこに無ければ無いですねを朝礼で唱和
会議時間を

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吊り革での実況はおやめください

吊り革での実況はおやめください

きょうも階段から転がり落ちる

駅員が全員うつむいてる

線路で釣りをしてる電車が来ない

赤色灯を光らせたおじさんがひとり

シベリアから飛んできたスカーフに付いた血

セブンの店員さんがみんな青い

口先だけの鳩のこと信じてる

下水から大音響のYOASOBI

クラクションが鳴り止まない町を出る

いま片付けますからと言ったタクシー運転手

鳩のための入試問題

鳩のための入試問題


『公園内のハトはご自分でお持ち帰りください。』

公園を出ようとして、見慣れない看板が立っているのに気づいた。
僕が看板の文字を何度か反芻していると、思わず鳩と目が合う。

「持って帰られちゃうんですか僕?」

鳩が言う。

そうだね困ったね。僕は答える。僕も鳩を持ち帰ったってしかたない。そもそも僕の鳩じゃない。

何か言おうとした僕を、鳩が咽を鳴らしながら遮る。

「そんなことより、これ手伝

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春風と曲線

春風と曲線

この世界は少しだけ曲線を描いていて
いつも君が少しだけカーブの先にいる。

君は春風を髪に受けながらスカートを翻して歩いてく。

自転車の二人組が追い越しても、おばあさんを散歩させた犬が立ち止って
見つめても、宅配の水を載せたワゴンから虹色の水が噴水のように
降り注いでも君は歩く。

パラパラまんがの街を君は歩いてく。ページをめくる気まぐれ。
勢いよく飛ばされそうな日々。

僕はそんな君のあとをず

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黄色い夜(再放送)

黄色い夜(再放送)

ターミナルのひとつ手前の駅、というのが好きだ。
なにもないことがわかっていても無駄に降りたくなってしまう。

その日も、森林公園で行われたイベント取材の帰りに、夕闇迫る北池袋で降りてしまった。池袋まで、べつに歩けない距離ではない。

風はぬるく、街の光はまだぼんやりとしている。中途半端な時間ということもあって、人通りも少ない。

だいたい、日曜日の夕暮れに人は無目的に歩かないものだ。こんな時間にふ

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「求む」やる気のない方

「求む」やる気のない方

厚介は逡巡していた。思ってもなかった求人を発見したからだ。

厚介の特徴は「やる気のないこと」である。世間一般ではやる気のなさはあまり評判がよくない。

けれども厚介は意に介してないのである。こんなに世の中にやる気が溢れているのだ。一人ぐらいやる気のない人間がいてもいいんじゃないか。

むしろ、そういう人間がいたほうがバランスが保てるってものだ。それぐらいに考えている。

以前の職場でも彼は、あま

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トモナガさんのお仕事

トモナガさんのお仕事

トモナガさんの仕事場は山手線の中だった。

といっても、スリや痴漢などではない。そういうのは、もちろん犯罪であって仕事とは呼べない。

じゃあ電車の運転士? それとも鉄道警察隊か何か? どれもちがう。ほとんどの人は、彼の仕事をしらない。

その日も、トモナガさんは五反田駅のホームにいた。

彼は、とある社章を胸に着けた男をマークして、 男が8両目の4番ドア付近に乗ったのを確かめると自分も隣のドアか

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指の音

指の音

階段を上がって真紀の部屋に着いてピンポンを押したら、知らない男の人が出てきてびっくりした。

部屋を間違えた? でも見覚えのある真紀の傘がドアの横に立て掛けてあるし。わたしが言葉を探していると、

「あ、友達だからいいの。ゴメンいま手が離せなくて。奈緒でしょ? 上がって」
と、奥のベランダのほうから真紀の声がするので、友達だからいいというのはわたしのことなのか、男のことなのかどっちだろうと思いなが

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夜の入り口でサボテンは

夜の入り口でサボテンは

「暗くなるのが早くなりましたね」

打ち合わせからの帰り道。まだ明るい時間だったので、いつもは通らない公園の脇道に入ろうとしたところでサボテンに話しかけられた。

しまった、と思った。日没前の明るさが残る時間はサボテンの活動時間なのだ。

サボテンは知人にでも偶然会ったかのように話しかけてきて、不意をつかれた僕は、うっかり「ええ」と返事をしてしまった。

「もうすぐ立冬ですからね」

サボテンはす

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