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婚約の鯵

土曜日の区役所は、なぜだか酷く混雑していた。

僕らは、いったいどの窓口に行くべきなのか。というより、どの用紙に何を書くべきなのかも分かってなかったので、 朝の新宿駅のような人の流れを前に呆然とするしかない。

あちこちで人々が何かを訴え、区役所の職員も首を振ったり、手に何かの用紙を掲げてどこか指差したりしている。

「来る日、間違えたかも」

僕がつぶやくと

「こんなもんじゃないの」と、彼女はとくに何の感慨もなさそうに答える。

まあたしかに、そういわれればそうかもしれない。区役所に来るのに最適な日和なんて、とくに思いつかない。

僕は深呼吸をする。何かの準備のように。

僕らがようやく《婚約審査受付》というプレートを見つけて辿り着くと、そこにも既にたくさんの人の列がクリップのように何重にも折り重なっている。

昂揚感のある人たちと事務的な窓口の組み合わせは、妙に歴史のある行楽地のロープウェイ乗り場みたいだなと思う。

列の最後にくっついて並んでいると、場末の店の支配人みたいな、疲労感を漂わせた目だけが妙に力のある職員がやって来て「もう締め切りますよ、早くしてもらわないと」と言う。

きっと何か余計なことを言うのが彼の職務なんだろう。

彼女は、職員の男をみて「目、すごい充血してるね」と言う。

「あの、僕ら用紙がまだ…」という僕の声を遮って、職員が「早く」と言いながら何かのファイル僕らに渡し、目だけで早く行けと促す。

仕方なくカウンターの横の仕切りを越え、中に入る。カウンターの中は思ったより暗くて何もなくてがっかりする。

カウンターの中を彼女の手を引いてずんずん歩き、半分倒れかかったアコーディオンカーテンを開けると、歓声が聞こえてくるのが分かって、僕らは少し緊張する。

「つかみが大切ですからね」

いつの間にか横にいた充血職員が言う。

「たいていみんな、雰囲気に呑まれるかウケを狙い過ぎるんです」

僕らの番が来る。

どうやら僕らの前のカップルは、彼がしどろもどろになり、途中で彼女が呆れて帰ってしまったみたいだ。

充電切れみたいに動けずにいる彼を職員の女の子が引きずりながら会場の外に連れ出す。

僕らの名前が呼ばれる。

結果は340婚約キロバトル。僕らは残念なことに、ギリギリで審査を通過できなかった。僕らのひとつ前に出た、あの充電切れカップルは、審査を通過していた。

僕らは区役所の玄関横に張り出された、婚約審査通過者の名前を見つめながら、これだったら今日は水族館に出かけたほうがよかったねと言う。

筒の中を流れてくる「流しアジ」をペンギンが食べるのを見てるほうがしあわせな1日だったかもしれない。

僕らの目の前を充電切れカップルが腕を絡ませながら通り過ぎていく。 こんな日だってあるのだ。