BACK TO THE “LOSER”
押忍。
ドブ色の風馬です。
梅雨の悪口を書いたら茹だるように暑くなってきました。もう夏ですね。夏が来るとワクワクします。特に何もしないのに。
ストロボエッジの「丁度 半分になった!」のシーン無茶苦茶好きなんですが、年々季節の匂いが遠くなることに寂しさを覚えております。皆様の嗅覚はまだあの頃のままでしょうか。何も感じなくなった人はおそらくコロナなので今すぐ病院に行ってください。
一ノ瀬....俺を抱いてくれ。
さて、今回は昨今の「クールジャパン」とかいう頭の硬いおじさんが集まって3秒で決めたみたいなスローガンと、日本のサブカルチャーの本質について考察していきます。
漫画やゲームは、諸外国からみて「クール」であるべきでしょうか?
そもそも、「クール」の基準はどの部分にあるのでしょうか?
「カルチャー」が干渉した「サブカルチャー」は本当に「サブカルチャー」でしょうか?
たくさんの疑問と共に、日本に残された最後の灯火、オタク文化の出口を探っていきます。
いざ参らん!(死ぬほど真面目で文字多めですが最後まで読んでくれたら嬉しいです。)
「クールジャパン」戦略について
そもそも「クールジャパン」とはなんでしょうか?
内閣府のホームページ(https://www.cao.go.jp/cool_japan/about/about.html)から引用します。
◎クールジャパンとは、世界から「クール(かっこいい)」と捉えられる(その可能性のあるものを含む)日本の「魅力」。
◎「食」、「アニメ」、「ポップカルチャー」などに限らず、世界の関心の変化を反映して無限に拡大していく可能性を秘め、様々な分野が対象となり得る。
◎世界の「共感」を得ることを通じ、日本のブランド力を高めるとともに、日本への愛情を有する外国人(日本ファン)を増やすことで、日本のソフトパワーを強化する。
「問題点」の一番気になる部分はここです。
世界の視点を意識していない
「世界」を意識した「日本らしさ」と言うこと自体がかなり線のズレた話になってきていませんかね、、、
自国のブランド力は他国の評価によって担保されるのでしょうか?諸外国にアニメファンがいるという事実は、それすなわち「日本ファンだ」と言うことにならないのでは、と僕は思います。
それはその「作品」のファンですよね。
例えば海外の映画を見た時に、「これはドイツ映画で素晴らしいからドイツが好きだ」と言う感情に皆さんはなりますか?少なくとも僕はなりません。
なぜなら映画というプロダクトに関わる監督、俳優であったりスタッフに向けて送られる賛辞が正当な評価だと感じているからです。
つまり根本、「人の目を気にしてしか成り立たない文化を創造していきたい」、「官民一体を理由に表現の抑制をしたい」という風に見えて仕方ないのです。
「サブカル」って「クール」じゃなくて「陰鬱」なもん
作品を綺麗に統治して、世界目線の戦略を打ち出せば、もっと日本の文化はマネタイズできるのでしょうか?
綺麗に統制された作品のみがカルチャーを形成してきたという史実はありません。
むしろ日本人の変態的で「フィクションになればどこまでアウトサイドを描いてもいい」という一種「ダダイズム」的な破壊工作が、人物描写の細かさや奥ゆかしさを作り上げて成功している例も多くみられるように思います。
今まで表現者を野放しにしてきたんです。
これからも野放しにするべきなんです。
おんぶに抱っこで作り上げられた作品に魂を感じるほど安い国民性でないと僕は思っています。
海外の人は「エヴァンゲリオン」を「紫ロボットがバババーンと走り回って敵を殲滅だ〜!!」と思って興奮してないはずだし、「さすが日本!最高に清々しいアニメ!」なんてカケラも思ってないと思うんです。
閉鎖的な90年代都市の若者が抱くごく日本的な葛藤、心象、そして作り込まれた「聖書」的なアプローチ。この入り組んだ複雑なストーリー展開に興奮していると思うんですね。
「わからないからいい。」「その余白が自分だけの物語になるからいい。」っていうかなり難しい作品性をわざわざ「アニメーション」でやるんですね。ドラマでも小説でもなくて「アニメーション」で。
それは職人気質で真面目でありながら、どこか自虐を含ませる日本人の「陰鬱さ」そのものだと思うのです。
「カルチャー」と「サブカルチャー」
「クール」である必要がないものを、「サブカルチャー」に押し込んできたのが日本文化の最たる例です。
だってそもそも「クール」な奴らは、いい家庭に生まれて、いい学校に行って、いい教育を受けて、いい人生を送るはずです。
「サブカル」ってそういうものに入れなかった、もしくは、入れているのに自分の精神性はフィクションの中にしかなかった、「敗者」の文化だとおもうんですね。
永遠に日本の、そして海外の、「カルチャー」に憧れ続けて。
そうなれなかった魂の搾りかす、自分のやりたいことだけをやった結果、誰に届くかもわからなくなった精神のささくれ。
そういったものが「サブ」カルチャーであって、手放しに賞賛される、教育上よい、国民の道徳感情に近い、といったものとはかけ離れていると思うんですよ。
非道徳的で、感情的、やらしさ、汚さも全部一緒くたに煮込んで作り上げたものだけが「伝説」となってきました。
それを国が本当に迎合して、本当の意味で「クール」だと思って推し進めていくのであれば大問題です。
「アウトサイダー・アート」という側面を持つからこそ、日本の作品は海外に評価され続けてきています。
「括って同じ日本の作品だから全部いいよね!」とはならないように、表現や知的財産についての法をみんなで守ってきた結果が、一瞬のマネタイズのために破壊されるべきではない。
税金を使うのであれば、世界戦略的な広告宣伝費に当てるのではなく、隅にいる表現者も含め全ての方がもっと表現の領域を増やせるようにサポートすることに充てていくべきだと僕は思います。
それがいつしか、世界各地で認められる作品を生むきっかけになれば、もっと「日本」という国のファン獲得に繋がるような気がしているのです。
こっちの方が「クール」ですよね。
「おもしろフラッシュ」と僕
僕は小学2年生から6年生に上がるまでずっと鍵っ子でした。親の愛をこれでもかというくらい注がれて育ってきたため、外に出るのは危険だという理由で基本は外出禁止。一台のパソコンを与えられ、放課後に友達との話題を作る唯一の手段がインターネットでした。
「おもしろフラッシュ」を見るのが好きでした。友達に話すと笑ってくれるから。
好き勝手に表現された全てはちっともクールではありませんでしたが、僕に曲がりきった偏見と、くだらない知識と、なにより、何を描いたとしても、相手の時間を奪ってまで伝えたいことがあるものは全て「作品」なんだということを教えてくれました。
あの時の僕は「マンション鬼ご」をする複数人の友達の笑い声を聞きながらパソコンに向かう、確実な「敗者」であったわけですが、その時の強烈なネットミームの数々が今の僕の鑑賞倫理の基礎になっています。
平成中期、インターネットの普及。
あらゆる人々が入り混じるカオス空間から生まれ出た行き場のない感情の塊。
あの闇こそ、今我が国が捉えるべき「日本カルチャーの本質」であると思うのです。
まとめ
麻生太郎元首相が「国営漫画喫茶」と揶揄されていた「国立メディア芸術総合センター」を設立するという施策を進めていたとき、堀江貴文氏が「国が管理する漫画博物館に、国民がみたいと思うものが入っているはずがない」とTVで言っていたのがとても印象的でした。
うまく干渉し合わずに、住み分けてこられたのは日本という国の懐の深さでもあります。
「クールジャパン」そのものを批判したいわけではなく、目的意識のない金策のために、自由が侵害される可能性が孕んでいて、あまつさえ、僕みたいなオタクであれば大歓迎ですが、全く興味のない人から徴収した税が使用されていることに甚だ疑問を覚えます。
「国民の共感」がテレビ番組を破壊したように。
「世界への共感」や、「その場限りのファン獲得」のために、ネット文化、漫画、アニメといった「敗者の歴史」を破壊する未来が来ないことを祈るばかりです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?