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わからなさに生かされているかもしれない

言葉もファッションと言っていいかもしれない
もてはやされた言葉たちは、1年もすれば他の言葉に置き換わっている。

問い、という言葉も僕にとってはそんな言葉の一つだった。

「答えよりも問いが大切になる」

そんな話は腐るほど聞いたけれど、言うは易しで、それがどんなことか、肌でわかっていないから、口にするだけで終わってしまう。
問いという人生を豊かにするための「答え」を求めてしまう。

それでも、思い悩む時に自分を生かしてくれたのは、わからないからわかりたいという、問いへの熱だった。

転機は大学生だった。
高校3年生になって、人からのアドバイスで美大に行くことを決めたから、美術予備校はおろか美術の授業すらとっていない。
でも全く知らない世界に行けるなら、まあいいかと思った。英語の勉強をアルファベットからやり直すような気持ちで楽だった。

入ってみると、「うまさ」はもちろん大切だったが、むしろ考え方に興味が注がれていた。

例えば、「透明・不透明・あるいは半透明」を表現するという課題が1年生の時に出た。
作品を作るとは、なにかしらをこの世に顕現させることだ。
透明とは何か?と考えなくては始まらなかった。


時間は不透明であるということを思ったらしく、その比喩としてラーメンを作ったらしい。麺が伸びるのは不透明だとか、腐ることでさらに時間を感じさせるとか、血迷ったことを話していた記憶がある。あと誤字があって恥ずかしい。

面白かったのは、人によって全然違う作品を出していたことだ。透明・不透明あるいは半透明の解釈は人それぞれだった。当たり前だけど、与えられた問題の答えを解くことが求められていた高校生までとは違うんだと、改めて自覚した

その頃からだと思う。
「問い」や「問い方」によって環世界が一変してしまうと感じ始めたのは。

あまりにも美術に対して無知だったから、アートとは何かとか、表現とは何かが常に頭の中にあった。辞書に書いてある言葉に納得できず、自分なりの定義を見つけないといけない、そんな風に考えるようになっていた。

一番執心していたのは、「自分は何ができるのか?」そして「デザインとは何か?」だ。
前者は、絵も描けない自分の存在意義は何かと考えるのに必死だったから。
後者は、初めて興味の持った領域だったからだ。

今もずっと考えているこれらの問いは、わかったと思えば、またわからなくなる。その繰り返しだ。
これだと思った答えは、いつの間にか腑に落ちなくなる。
問いは更新されるし、循環する。同じ定義に戻っても、解像度が違う。

でも、その分からなさが、生きていくためのエネルギーを生み出してくれているのではないか?最近そう思うようになった。
わからないと言うのは、不安でもある。自分のアイデンティティが揺らぐ。でもわからない不安が、わかりたいという欲望にも変わる。

わかりたいから、自分の知らない世界に飛び込みたいし、自分の知っている世界も、もう一度見渡すと、新たな発見がある。
発見は嬉しいし、楽しい。

わからないからわかりたい。そう思えることが、今日も僕を生かす。
わからないことが、今日も増えていく。

今いる島で、そんなことを考えながらメンバーと一緒に作ったプログラムです。3/4,5に開催予定ですので、ご興味のある方はぜひ!

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