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【カオス病院 #15】無縁仏

「新しい人かい? 俺? 俺はね…83歳! もうすぐ死ぬの」

そう言って笑った顔は、何となく幼いいたずらっ子を彷彿とさせた。彼は私が入職して初めて出会った患者だった。

回診の様子を柱の陰から伺ったり、病院中を徘徊したりと、いつの間にか彼は職員なら誰でも知っている、ちょっと問題な患者となった。彼の知名度の理由は他にもあった。

それは、カルテに踊る「現在、成年後見人申請中です」の文字のせいだ。



「ここは美人の職員ばかりだなぁ、あはは!」

とカラカラ呑気に笑うけれど、彼の過去は壮絶だ。息子と友人に財産を奪われた上に借金を背負わされ、絶縁したという。現在、彼の面倒をみる人はこの世に存在しない。

そういう人は、弁護士に頼んで成年後見人になってもらう必要がある。成年後見人とは、認知症などによって判断能力が低下してしまった人に付くサポート役のことである。

客観的に見て、かなり人生の窮地に立たされている状況だったが、毎日を自由に楽しんで生きていて、悲壮感は全く感じられなかった。

「俺はね、息子がいるの。連絡取れないんだけどね」

「今日もご苦労さん」

「俺、いつ退院できるの?」

彼は私に色々なことを話しかけてきた。忙しそうにしている医者や看護師よりも話しかけやすかったのだろう。でもそれが私にとっては、とてもうれしいことだった。

手術など、短期的な治療をする病院を急性期病院という。急性期病院では2・3週間、状態によっては1ヵ月程度の入院が目安であり、治療が終了し次第、退院することになっている。

退院後、自宅へ戻ることが困難な人は、たいてい長期療養型の病院に転院となるか、施設へ入所する。しかし、彼の退院はずっと長引いていた。病気の状態が悪いわけではない。成年後見人の件などがあり、病院からも施設からも入所を断られているのだ。

急性期病院としては、何も治療する必要がない人でベッドを埋めたくない。だが、もちろん無理やり退院させるわけにもいかないので、彼が入所できる施設探しに躍起になっていた。そんな時、少しずつ彼に異変が現れ始めた。

彼の徘徊癖は入院当初よりみられたが、あくまでも徘徊するのは自分の病室の近くまでだった。しかし、その日はなんと別の病棟まで来ていた。
私は驚き、「戻りましょう」と声をかけた。陽気な彼のことだ。きっと、アハハと笑いながら、「ついつい気になって来ちゃった」などと言うのだろうと思った。だが、彼の口から飛び出した言葉はそんなものではなかった。

「うるせぇな! お前誰だ!」

ひと際大きな声が、病院の廊下にこだまする。

名前こそ覚えられていなかったものの、今までは私を見知った顔と認識して挨拶をしてくれていた……はずだった。

大きな声を聞きつけて集まった看護師たちに彼を任せ、私は医局へ戻った。

それから何度かにこやかに挨拶をしてくれる時はあったものの、私の存在を忘れているのか怒鳴ることが増えた。私の知っている彼はどこへ行ってしまったのだろう……。知らない世界にぽつんと一人残されたような気持ちになった。

彼に下された診断は、認知症だった。加速度的に進行していき、彼は少しずつベッドから動けなくなっていった。皮肉なことにあまり動けなくなったことで、彼を受け入れてくれる施設が見つかり、彼は病院を後にした。

病棟は随分平和になったが、私は寂しい気持ちで一杯だった。次会うときには、私のことを覚えてなかったとしても、また彼に会いたいなと思った。しかし彼が私と会うということは、彼が病気になることを意味する。

……どうか戻ってきませんように。そして、新しい施設の人になるべく優しくされますように、と祈った。



……そうして、半年後、彼は戻ってきた。

戻ってこないように、と祈っていたけれど、なんだかんだ彼の名前が病棟の一覧にあると嬉しさが込み上げて、私はすぐさま彼の病室へ挨拶をしに行った。

しかし、目に飛び込んできた彼は変わり果てた姿だった。最後に顔を見た時も認知症状や問題行動があったりしたが……。

彼は、両手にミトンをつけていて、ほとんど自分の意志では動けなくなっていた。それだけじゃない。

「あの……こんにちは」

「……」

「私のこと、覚えていますか?」

「……」

「最初会ったとき、ご挨拶してくださいましたよね……?」

「……」

彼はもう、話すことはおろか、目を合わせることすら出来なくなってしまっていた。

それからはあっという間だった。認知症の末期症状は、嚥下機能(えんげきのう。食べ物を飲み込む力のこと)の低下である。しかも先行期の嚥下障害と言って、筋力などの問題で食べ物を飲み込めなくなるのではなく、食べ物を食べることすら忘れてしまって、食事を受け付けないという状況だった。

そういった人は、胃瘻(いろう)や中心静脈カテーテル、もしくはポートから生きるのに必要な栄養を補給することとなる。栄養は管から入っているとはいえ、体の機能がかなり落ち込んでいる状態なので頻繁に肺炎を起こし、なかなか治らなかったり、何度も再発するなどして、いずれは亡くなってしまう。

彼もその例外ではなく、「天国の扉」(死期が近いと移される病院内の個室)へ入ってあっという間に永眠した。カルテには、

「息子様より 葬儀や墓など一切面倒をみることができない。全てそちらに任せるとのこと。無縁仏として合同火葬となることに了承いただく」

という記載があって、それがまた私を切なくさせた。

彼だけが特別ではないけれど。彼のことだから、立派な葬式など興味なさそうだけど。

けれど彼が生きたことが、誰の心にもとまらないまま消えてしまうみたいで、耐えられなかった。これはエゴ? もしくは偽善だろうか? 答えは出なかった。

「私だけは、あなたのこと忘れないからね」

と天国にいる彼に語りかけながら、死亡サマリを作成した。

著者:藤見葉月
イラスト・編集協力:つかもとかずき

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