人生谷だらけ。(生きる事は、過酷だ。)

備忘録。 母の生い立ちからの記録。 戦後の記録。 読んでくれたら、 嬉しいです。 出版社さんと繋がりたいです。 昭和の戦後の記録を本に 残したいんです。 出版社さん、よろしくお願いします🙇⤵️

人生谷だらけ。(生きる事は、過酷だ。)

備忘録。 母の生い立ちからの記録。 戦後の記録。 読んでくれたら、 嬉しいです。 出版社さんと繋がりたいです。 昭和の戦後の記録を本に 残したいんです。 出版社さん、よろしくお願いします🙇⤵️

最近の記事

母と私の人生20章

私が出産して一週間たてば退院です まずは旦那の家により旦那のお父さん に挨拶をして実家にちょっと間 お世話になる事にしました 私は産休をもらっていたので 仕事が始まれば、実家の母に 預かってもらい仕事をするつもりでした でも、実家もおじさんの仕事があり 母も手伝わなければいけない 場面もあり、子守はできなくなり 私は旦那の家にかえる事になりました 一緒に同居して三年はよく言い合い をしましたよ~ なんせ、大正生まれと昭和生まれ ですから、お父さんも当時68歳くらいで した

    • 母と私の人生19章

      ある日私が夕方会社から帰って 来たら玄関に私が実家で使っていた ボックスや小さなタンスがおかれて いました。 一言連絡くらいしてくれたら いいのに、突然いろんな物が あったので驚きました それから一年後旦那さんのお母さんは 亡くなりましたが、私はその時 妊娠しておりよく年の春に長女を 出産しました。 旦那の親戚の人達や母も喜んで くれました。 母が言うには、生まれてきた時の 赤ちゃんの顔は 旦那さんの お母さんにそっくりだったそうです しばらくは言われてましたよ~ お母さん

      • 母と私の人生18章

        やっと私は、実家から離れられた 思いと、今から旦那さんの家で 同居生活が 始まると言う思いで 胸がいっぱいでした。 でも旦那さんのお母さんは 肝臓がんで、長い間病院に入院して いて、ずーっとお父さんが病院で 泊まり込みの 看病していました なので私と旦那は日曜日にお父さん と、交代して旦那はお父さんを連れて、 喫茶店に行ってました。 今で言う(カフェ)ですね~ 私は病院に残りお母さんに リンゴをすって、食べさせて あげたりしてましたね。 これが私の人生で初めての病院 での

        • 母と私の人生17章

          そうして社内結婚だったので 結婚式の日に着物姿で会社に 挨拶に行きました、会社の社長さんが 一言いいました。 あんた、よ〜う、こんな男と 結婚したな〜 もう少し、待てばよかったなーと 私は冗談で言っていると思ってました でも、何年間かたったころその 言葉の意味がわかった気がしました。 (男性)つまり旦那さんは、 気が短いし人の話しを聞かないし おこりやすい人なのでしたの 若い時は何も考えず、ただ家を 出て行きたいだけでしたね

          母と私の人生16章

          会社で時どき見かけていた男性は いつも、何か 怒られながら仕事 をしていましたね~ その姿が面白かった気がします~ 叱っていた上司の人も笑いながら でしたから、会社的には楽しい 親しみのある私にとっては とても過ごしやすい会社でした 年が開けて新年会をする事になり 私と友人そして友人の彼氏と男性と 四人で新年会をする事になり 夜は男性の家で泊まる事にしましました 私は外泊をした事がなかったので 友人が私の家に連絡をしてくれて 友人の家に泊まると嘘を言ったの です~ まだ 

          母と私の人生15章

          車の免許を取った時にバイクも 乗れるので、始めの二週間くらいは バイクで通っていましたが、なんせ 国道を走っているのでトラックが 横を通る時、風が強く流され そうになるのでこわくなり車で通勤する ようにしました。 会社に勤め始めて一年半頃 会社の 忘年会があり初めて参加しました そこで、出会ったのがいつも会社の車で一緒に他社に行く男性でした その時は 全く興味もなくよくおしゃべりする人だなぁー しか思っていませんでした

          母と私の人生14章

          田舎の家は私達がいつも、おじさんの 廃品回収を手伝っていた家ですが 私には 母もこの家にいるので ここしか帰ってくる所はないのです 田舎に帰れば車の免許をとらなくては 交通面がとても不便でした。 なので、仕事の手伝いをしながら 自動車学校に通うようにしました 何ヶ月学校に通ったか良く覚えて ないですが、明日は本免と言う時 おじさんは、通うのは遠いから 試験場で泊まって勉強するといいよ~ と、言ってました 私は一人で泊まりは寂しい気が していました。 でも、どこかの会社みた

          母と私の人生13章

          私の就職先は東京でした。 姉と同じ会社です 私は会社で姉を呼ぶ時は名前に さんをつけてよんでいました 甘えるのが苦手なタイプでした 給料の日はうれしいかった ですね~ 私は母に毎月1万円を仕送り していましたね その後私は五年ほど東京に いましたが、やはりいなかが 恋しくなり田舎帰りました。

          母と私の人生12章

          ある日私が小学五年生頃だと思いますが 家に帰ると、車は有るのに 玄関のカギは閉まっていたので 裏からこっそり、家の中に入ってみると おじさんの寝室に  知らない女性が いたので、びっくりでした 私は何があったのか、さっぱり 夕方母に話しをしました~ そしたら、おじさんの病気が 始まったのよ  と言われ まーいいかとその日は終わりました 私が大人になって気付いた 事でした! この人は女遊びを する人だったんだ。~と 母も可哀想な人生だったと思い ますが、その時代は母にとって

          母と私の人生11章

          私は小学3年生の頃兄が新聞配達を しているのを見て、私も新聞配達をやりたいと母親にいいました、母は心配そうでしたが、昔は車もすくない時代でしたので、 頑張ってみなさいと言われ よろこびました これで小遣いをためて 自分で欲しい物を買おと思いました。 でも夕方一月だけの配達だったので 1000円くらいでしたね~ その給料をおじさんに預けた事も ありましたが、いざ私が欲しい 物があるから、お金下さい と言うと、言い訳されてくれません でした。それからは 預ける事はしません でし

          第10章 母と私の人生

          私と姉。 兄もいます。 私の記憶には兄の存在が薄い 気がします。 兄はよく祖母の家に泊まりに 行っていました。 いつしか 知らないおじさんが、 私と姉を迎えに来るようになり。 母に聞くと おじさんは、父と 知りあいの関係ようでした。 家は平屋の大きな家で、 仕事は廃品回収をしていました。 私と姉は日曜日になると 仕事を手伝うようになり。 いやいやながら手伝っていました。 夏休みになると子供会などで 廃品回収をしてました。 集まるとおじさんが 回収に行きますが。 私と母が

          第9章 母と私の人生

          父が亡くなり。 母は一人で、子供三人を育てなければなりません。 毎日、母は仕事に行き夕方帰って 来ます、私は保育園ですが お迎えはいつも姉が来てくれて ました。 保育園で少し遊んで二人で 帰ってました。 たまに、保育園の先生が送って くれる事もありました。 でも その時は家に帰っても おやつはなく、白ご飯に お砂糖をかけて 一人でたべてました。 時々、隣りのおばさんが私を 心配して遊んでくれていました。 これを 書いていて思いましたが、 保育園の時にお迎えが母では なかっ

          第8章

          あれから何日か 過ぎ気がついた時。 父が居間に寝ていました。 何事が起きているのかわからず 気がついた時は、父は鼻からは 白泡が出ていました。 家には電話が無いため母は 自転車に乗り祖母の家まで走りました。 私母の後ろに落ちないように 母にしっかりつかまっていました。 姉は鼻から泡がでる父の世話を していました。 この時姉は、 小学校四年の時でした。 結局、父の死は心臓麻痺と 言う病名がつけられました。 まだ 38歳でしたが、私に とって優しい父でした。 私がはしかにかか

          第7章

          次に住む家は二階にも部屋が あり五人で住むには快適でした😃 近くに保育園があり、 少しあるけば小学校も近いし 最高でした😃 それはまだ私が3歳くらいだと おもいますが。 雨の日保育園に、 通う子供たちはみんな黄色の 傘を持っていて。 私の傘は、黒い傘で持つ所が赤でした。 父が私に作ってくれましたが。 私は、だだをこねて。 みんなと同じ黄色がいい。と 泣いた事を覚えています。

          過酷な人生 第6章

          私の想いで 私はまだ二歳ぐらいでした。 ある夜、伯父が酒を飲んだ勢いで 近所迷惑になるくらい、 大きな声で父と口論を 始めてました。 私は母と寝床に入り 寝ていました。 それから数日の時がすぎた頃と 思いますが。 夜遅い時間に私達は、祖母のから逃げるように家を出ていきました。 二歳の私は何が起きているか わからず家族五人で夜の道を ひたすら歩いて、次の家に たどり着いたのを覚えています。 私は、今思えば父は酒ぐせの 悪い伯父と暮らす事は子供たち にとって良くないと思っ

          人生、谷だらけ 第5章

          川へ洗濯へ。 今からが、過酷な生活のはじまるのです。 父の実家は百章仕事で生活をして いましたので、嫁いだ母は朝から 大勢の食事の支度や、百章仕事までするようになります 百章仕事も、経験が無いため 祖母から教えてもらいながら 頑張っていた様です。 その当時は、家には水道はありましたが、水の出が悪く家から少し離れた場所に井戸がありましたので、時どき水をくみに行っていたそうです 時には近くの川に、近所の人と 洗濯物を持って洗いに行ったり してました😃 時には近くの川に、