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死刑廃止論 ~ 理論的枠組みの提案 ~

 本稿は今私が通っている国際基督教大学(ICU)の必修授業・キリスト教概論の期末レポートとして執筆したものに多少手を加えたものです。授業内でもディベートに参加し、その中で議論をする中で、以下の立論の枠組みを思いつきました。

 死刑については親族の影響などもあり考えてみたいと考えていたテーマでしたが、自分の考えをある程度まとまった形にするのは初めてなので、ここで公開して、興味のある奇特な方に読んでいただいてご意見をいただきたいと思い公開します。

 なお、専門家ではないので法学的な視点からの検討などには粗さが多いことを自覚しています。その点は今後の課題としてご容赦願いたいと思います。

1.はじめに

 まず、「1.人間の命は最大限尊重されるべきである。」「2.1を実現するため、人間の命を奪う行為は否定されるべきである。」ということを、死刑を語る上での原則として確認したい。この原則には、死刑肯定派も同意せざるをえないと考える。この原則を正しいと考えなければ、主として殺人犯に課される死刑を肯定することはできないからである。
 
 上記原則の上に立つと、死刑の是非の問題は、「基本的には否定されるべき人命の奪取である死刑を例外的に肯定するほどの合理的理由があるか否か」という問題に言い換えることができる。そこで今回は、死刑肯定派がよって立ちうる論拠の合理性を否定することを中心に、死刑廃止論の立論を行うことを提案したい。全ての論拠について検討することは大仕事になってしまうため、主要な論題について論じ、議論の枠組みを提案することを本稿の目的とする。
 
 なお、死刑以外の刑罰も人権の制約であるのだから、私の主張に基づけば基本的には許されず、以下に述べる主張は死刑のみならず刑罰そのものを否定するものではないか、との指摘も考えられる。その指摘に答えるためには、死刑とその他の刑罰の間にある非常に大きな質的な断絶を確認しなければならない。刑罰は生命刑自由刑財産刑などと、刑罰が制約の対象とするものによって分けられる。死刑は言うまでもなく生命刑、日本においてはその他の刑罰は自由刑か財産刑にあたる。生命刑とその他の刑罰の間には超えることのできない大きな溝が存在する。財産刑や自由刑は、人権を一部制約するものの人権の享有主体までは否定しない。しかし、死刑は人権の享有主体自体を抹殺する。これは人権が一部制約を受けるどころか、根こそぎ奪われる事を意味する。このように、死刑はその他の刑罰と比して遥かに重大な結果をもたらすのであり、その是非を判断するにあたっては特に厳しい検討がなされなければならない。よって本稿では、特に厳しい姿勢で死刑という刑罰の合理性を検討するが、その他の刑罰に関しても同様の厳しさを持った検討がなされるべきであると主張しているわけではないことをご留意いただきたい。

2.応報刑論


  まず、応報刑を刑罰の原則と考え、その原則に立って死刑を肯定する立場について検討する。再犯率の高さなどを問題視し、刑罰の教育的側面を重視する私の立場からは応報が刑罰の原則であるか否かについても疑問が生じるが、仮にその原則が正しいとしても、死刑を肯定する根拠とはなり得ないことを立証する。応報刑論は同害報復の考え方をその基盤としていると考えられるが、現行の法体系の中では純粋な同害報復に基づく絶対的な応報刑、すなわち加害者に対し、当人が与えた損害と全く同一の損害を必ず与える刑罰は存在しない。現代の法体系の中に応報刑的要素を見出そうとすると、それは相対的応報刑という形で現れる。すなわち、より重い罪にはより重い罰を与えるべきであるが、必ずしも同害であることは求めないという形である。従って、仮に応報刑論が刑罰の原則であるとしても、現行法体系が前提とする相対的応報刑論に従えば、殺人者に対して求められるのは、他の罪に対する刑罰と比して重い刑罰ではあっても、それが死刑である必要はない(森,2015)。基本的には否定されるべき生命の奪取を肯定するほどの理由とはなり得ないのである。
 
 これに対し、現行の制度はさておき、相対的応報刑が絶対的応報刑と比して正しいとする根拠はないという指摘もあるだろう。絶対的応報刑に基づいて死刑を肯定する主張があった場合には、相対的応報刑が絶対的応報刑よりもより正義に叶ったものであることを説明しなければならない。そうでなければ、応報刑論に基づく死刑肯定論の論拠を完全に否定した事にはならないのである。
 
 刑罰の本質の1つは不正義を正し、正義を実現することであると考えられる。その上で、「不正義を正すのは正義でなくてはならない」ということを確認しよう。なぜならば、不正義を不正義でただしたならば、そこには新たなる不正義が発生し、従って依然として不正義が残り、刑罰の本質的な目的が達せられないからである。この考え方は、古くは聖書におけるイエスの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネによる福音書8章7節)という言葉にも表れていると考えられる。罰するものは正義を保持するものでなくてはならないという思想である。他者の意志に反して性的関係を持ったものに対し、罰としてその者の意志に反して性的関係を強制することは正義であると言えるだろうか。他者の目を怪我させたものの目を罰としてえぐり取ることは、正義であると言えるだろうか。他者の命を奪ったものの命を奪い取ることは正義であると言えるだろうか。新たな不正義を生み出し、新たな苦しみを生み出すだけではなかろうか。正義を実現するはずが、かえって不正義を増幅させてしまうのである。「やられたからやり返した」という主張は子供の喧嘩の理論であって、成熟した正義の理論とは言い難い。このように考えると、不正義を正すという刑罰の目的を実現するためには、その手段がより正義にかなったものである必要があることは明白である。その為には、その手段をできる限り不正義から遠ざける必要があることを考えると、ある行いに対してそれと同等のもの、すなわち不正義に対しては不正義をもって報いようとする絶対的応報刑を否定する必要性が明確になる。
 
 以上、刑罰の目的に照らして我々は絶対的応報刑ではなく相対的応報刑の考え方を採用するべきである理由と、相対的応報刑を基礎とするならば、死刑が絶対に必要である理由はなく、したがって基本的には悪である死刑を肯定するほどの根拠とはなりえないことを説明した。
 

3.死刑の犯罪予防効果について


  次に犯罪予防の観点から死刑を肯定する立場について検討する。刑法の犯罪予防効果は、一般予防特別予防に分類される。一般予防とは、刑罰を課すことが犯人以外の人間に対して犯罪抑制効果を持つとする立場である。特別予防とは犯人本人の再犯の可能性を減らすことを刑罰の目的とする立場である。死刑は本人の存在を抹殺する刑罰であるから、特別予防を根拠とする刑罰とはなりえない。特別予防の考え方に基づいて死刑を肯定することは不可能である。従って、死刑が一般予防的効果を持っているかについて検討する。
 
 まず、死刑が殺人に対して他の刑罰と比して強い一般予防効果を持っていることを示す証拠はない。死刑廃止国やアメリカの死刑廃止州において、存置している国、あるいは州と比べて、凶悪犯罪が増加したことは報告されていないし、国連による調査でも、死刑がその他の終身刑などと比較して強い犯罪抑制効果を持っていることは実証できないとされているのである(日本弁護士連合会,2021)。この点だけでも十分に、一般予防論が基本的には悪である生命の奪取を肯定するほどの根拠とはなり得ないことは主張可能である。確かに、死刑が一般予防効果を持たないことの十分な統計的研究もない。しかし、冒頭で確認したように、死刑は基本的には悪であり、その実施に当たってはそれを例外的に認めるだけの根拠が示されるべきであるとの前提に立てば、死刑の有効性の立証責任を負っているのは死刑肯定派なのであり、死刑廃止論の立場から死刑の一般予防効果を否定する統計的研究の提示をおこなう必要はない。また、ここで注意していただきたいのは、必ずしも刑罰一般が持つ一般予防効果を一様に否定しているわけではないという点である。あくまで死刑がなければ、殺人を予防できないとする立場には論拠がないと主張しているのである。
 
   また、単純に一般予防を肯定すると、刑の残虐化を容認することになる。一般予防の考え方に基づけば、刑罰の執行は一種の「みせしめ」であるのだから、強烈であればあるほどその効果を増すという事になる。実際過去の刑罰はそのような考えに基づいて実施されていた。功利主義哲学の代表者、ジェレミー・ベンサムは彼の著書『刑罰論』の中で「刑罰を見せしめとし、その儀式に陰鬱な荘厳さを与えよ。(中略)死刑執行人は恐怖を煽ると同時に(中略)仮面をつけ・・・」と述べ、刑罰の執行が恐怖を煽り、見せしめとなる事を積極的に肯定していた(森,2015)。先に述べたように、不正義を正す刑罰は正義に叶った物でなくてはならないことと併せて考えると、過剰に残虐性を促進し、不正義を増幅しうる論理によって死刑を肯定することはできない。
 
 犯罪予防の観点から死刑を肯定する意見の中には、宮澤浩一が自らの論文『死刑廃止論』の中で紹介している竹田直平の以下のような議論も存在する。死刑は、本来利他的かつ恣意的な存在である人間が、相互に各自の安全を守るために交わした「私はあなたを殺さないことを約する。若しこの約束に違反してあなたを不法に殺すことがあれば私の生命を提供する」(69)という約束を履行するための制度である、という主張である。この立場からは、死刑廃止論の立場は「私はあなたを殺さないことを一応約束する。しかし私は恣意的にこの約束に違反してあなたを殺すことがあってもあなたは予め私を殺さないという約束を与えよ」(69)と要求する立場ということになる。そうすると、殺人犯の生命が被害者の生命と比して重く扱われていることになり、不当ではないかと主張する。(宮澤, 1964)
 
 この点については以下のように反論可能である。刑法は私人間の関係について定めた私法ではなく、国家権力と私人との間の関係を定めた公法である。従って、この議論においての生命の平等とは、加害者と被害者2人の私人の間で、彼らの生命を天秤にかけることによって計られるものではない。刑罰は国家と国民との間の問題であるのだから、死刑の問題は国家権力が生命にどのように向き合うかが問われる問題ととらえるべきであり、2人の生命の平等は、両者を含む全ての人間各々の生命が、国家との関係において等しく尊重されるべきであるということから帰結する。すくなくとも犯罪発生前、国家は後に殺害するものAと殺害されるものBの双方の生命を等しく尊重しなければならない。さて、ここで図らずもAの内に殺意が生じ、Bを殺害したとする。ここで問題となるのは、前出の竹田が主張するように、Aが国家権力によって生命を奪われなければ、Aの生命がBのそれと比して重く扱われたという結論にいたるのか、という点である。仮に、AとBの生命の平等が、天秤にかけられた2つの物体のように2人間の関係によって成立するものであったならば、一方が失われたのならば、もう一方も失われなければ均衡は保てない。だが、先に述べたように、刑罰の文脈の中では、AとBの生命の平等は2人の間で規定されるものではなく、双方それぞれと国家の関係において規定されるものである。従ってAとBとの間には直接的均衡関係がない。そうである以上、Bの生命が失われたことは、国家にとって保護すべき対象を欠落させてしまったという失態を意味するものの、それが直ちにAと国家との関係に影響を与えるわけではなく、Aの生命は依然国家にとって尊重するべき生命であり、再三述べているように、例外的に生命奪取を肯定する特段の理由がない限りこれを奪うことはできない。ここで言いたいことは、私の死刑廃止論は犯罪者の命を被害者の命と比して重く扱っているわけではなく、全ての生命を国家との関係において等しく扱うのであれば死刑を肯定すべき理由がないと主張しているのであるということだ。無論、Bを含むA以外の生命を保護する予防的手段として死刑の存置が必要であると主張すれば、国家との関係における各人の生命の平等な尊重を確立する為に死刑が必要であるとの立論は可能である。しかし、この論理は一般予防の観点から死刑を肯定する論理であり、その非妥当性は既に述べた通りである。また、AにBの死に対して一切責任がないと主張している訳でもない。ここでは、あくまで死刑を廃止する事が生命の平等を損なうとの主張に対して、死刑を国家がいかにして生命と向き合うべきかという問題だととらえる観点からは必ずしもそうとはいえないということを論じたものである。
 

4.「共存在」意識の要としての死刑

 最後に、死刑をより哲学的視点から肯定する森炎の議論を紹介し、それに対する反論を試みる。森はその著書『死刑肯定論』の中でドストエフスキーの『罪と罰』におけるソーニャとラスコーリニコフの「なぜ人を殺してはいけないのか」についての議論を紹介しながら次のように主張する。森は「無益な者、有害な者、悪い者を殺して、なぜいけないのか」というラスコーリニコフの問いかけに対するソーニャの「金貸しの老婆と私たちのどこが違うというのか」という反問を紹介し、ソーニャの持つ「他者を自分とともにある存在」として捉える姿勢、すなわち他者を「共存在」として捉える姿勢が、「なぜ人を殺してはならないのか」という問いに対する究極的な返答であると主張する。このことを土台とし、死刑は、殺人者が他者を殺害する瞬間に自らもまた死刑によって命を奪われる可能性を想起し、今まさに殺害しようとしている他者と自分が共にある存在であることを意識するために必要である、と森は主張する。死刑を廃止すると、法の力で強制的に自らと他者が「共存在」であることを思い知らされる機会が消失してしまうので、人間はもはや個人の資質を通して、あるいは実社会の中での体験を通してその感覚を得るしかなくなる。これらは制度外のことであるから、死刑を廃止すれば社会制度の中から人間存在が「共存在」であることが失われると森は主張する。また森の主張によれば、これらの議論は実際にどれだけの人が死刑の存在によって殺害を思いとどまるかにかかわらず、人々の意識と法制度や社会制度との関わりについて考察するための思考実験であるから、先に述べた一般予防論に関わる議論とは質を異にするものであると主張する(森,2015)。
 
 「人を殺してはならない」という命題の根拠を人間の「共存在」性に求める議論には異論がない。ただし、「共存在」であることの根拠が死刑にあるとするのはあまりに短絡的ではないだろうか。「共存在」の意識が死刑に依っているのではないことは、合法的殺人の場面を想起すれば容易に理解できる。日本における合法的殺人の一例は皮肉にも死刑であるが、死刑の執行ボタンは執行を担う刑務官の心理的負担を軽減するため複数個用意されており、それらを複数の刑務官が同時に押すことが知られている。これは、代償として自分の生命が奪われるという条件がなくても、人間が他者を自らと共にある存在として理解し、その命を奪うことに躊躇いを感じることの例に他ならない。また、そもそも殺人者も、殺害を試みたときに、死刑を想起しそれによって人間が「共存在」であることを意識すると言うよりも、目の前で人間の生命が奪われようとしている場面を目にし、その恐怖を目の当たりにして、もし同じことが自らにも降り掛かったら、という一般的な想像力によって人間の「共存在」性を自覚することは容易に考えられる。
 
 上記の反論は森の言うところの「制度外のこと」であり、制度上は「共存在」意識が失われており、それは問題だという主張もあるだろう。しかし、人間の内面に深く関わる事柄を全て制度の面から規定しようとするのは無理があるし、そもそもそうすべきでもない。「共存在」意識の確立は教育などを通して行われるべきであって、死刑による脅迫で行われるべきものではないだろう。
 
 以上のことから、死刑が「共存在」意識の維持のために必要であるとの主張は合理性を欠くものである。
 

6.最後に


 
 ここまで、「1.人間の命は最大限尊重されるべきである。」「2.1を実現するため、人間の命を奪う行為は否定されるべきである。」という死刑肯定派も同意しうる大前提のもと、死刑肯定派の前提としうる主要な論点の非合理性について論じることで死刑廃止論の立論を試みた。相手方の主張の否定によって自らの立場の立論を行うことは、消極的姿勢と捉える方もいるかもしれない。しかし、死刑が、基本的には否定されるべき生命の奪取であることを考えれば、それを例外的に肯定するだけの理由が無い限り認められないと考え、肯定派の論拠を検証する本稿の姿勢は、死刑問題の本質に適ったものと考える。死刑肯定派の論拠の全てについてここで論じられているわけではないが、今回は死刑廃止論の議論の枠組みとして肯定派の論拠を吟味することによる立論という形の提示を目的とし、ここで結びとする。

参考文献:

『聖書 新共同訳』, 日本聖書協会.
『死刑制度いる?いらない?』, 日本弁護士連合会, 2021.
高橋則夫, 『刑法総論第2版』,成文堂, 2013.
森炎,『死刑肯定論』,筑摩書房,2015.
宮澤浩一, 『死刑廃止論の立場』 法學研究:法律・政治・社会, vol. 37, 1, 1964, pp. 62–99.


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