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「他人の評価」を気にして生きるのは、良くないことなのか?


青木杏樹さんの記事に感動した。この気持ちをなんとか残しておきたいと思った。


私が考え込んでしまったのは、特にこの一文だった。

小説とは応募するもの、小説とは他人に読んでもらうもの、という考えがわたしにはありませんでした。

「誰に見せる予定もない物語をひたすら書き続ける」という生き方。私はそういう生き方をとても美しいと感じる。


こういう生き方にふれるといつも、「人に役に立たなきゃ、人に認められなきゃ、面白くしなきゃ」ということばかり考えて文章を書いている自分がなんだか恥ずかしくなる。

だから自分も、人の目を気にせず、自分がつくりたいものをつくらなきゃ、と気持ちを新たにする。

していた。

いつもなら。

しかし今回は、「本当にそうなのか……?」という疑問が浮かんだ。


ここで立ち止まって考えてみたい。

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何の価値も意味もないかもしれないけど、自分がついやってしまうことにひたすら時間をかける。私はこれが人生においていちばん良い時間の使い方だと思っているのだけど、あなたはどうだろう。

この考えには確信感があるのだけど、その裏に、

「人の目を気にして、人に気に入られるために、儲けるために、時間をかけるのはあまり良い時間の使い方ではない」

という思い込みがあることに気づいた。

私は青木さんの文章を読み、「人の評価を気にしない創作活動は美しい」と思った。そして同時に、「人に読まれることばかりを気にして文章を書いている自分が恥ずかしい」と思った。

「人に読まれることばかりを気にして文章を書いている自分が恥ずかしい」?なぜ恥ずかしいのだろうか?何かが間違っているような気がする。


何が間違っているのだろうか

たとえば、たった一人を愛するという生き方がある。私はそれを美しいと感じる。

これは最近観なおしてやっぱり号泣した「きみに読む物語」


一人の人間を深く愛するということは、自分以外の人間と、深く干渉し合いながら生きるということだ。これは「自分の世界にこだわる」どころか、真逆の世界観だ。それを美しいと感じる。


『プロフェッショナル 仕事の流儀』に登場する、尊敬すべき職人たちも、いかにお客様に喜んでもらうか、ということを至上の目的にしている。


気づいた

あー、なるほど。そうか。これはジャック・ラカンの「大文字の他者」の話だ。

一人の人間を愛したり、たくさんのお客様を感動させたり、そうやって目の前の相手に真心を込めて接することは、目的であり、同時に手段なのだ。

なんのための手段か?大文字の他者に応えるための手段なのだ。

大文字の他者とは、あまりにもざっくりといえば「想像上の誰か。裏切ってはいけない誰か。自分の道徳的態度を規定する誰か」といった概念だ。

一人の人間を愛したり、一人ひとりのお客様に真心を込めるのは、それが目の前の相手が大切だから、というのはもちろんだが、その先に「そういう生き方をする自分を、大文字の他者に認めて欲しい」という思いがあるからなのだ。

「誰に見せる予定もない物語をひたすら書き続ける」という生き方。何の価値も意味もないかもしれないけど、自分がついやってしまうことにひたすら時間をかける生き方。これは美しい。自分もそうやって生きたいと思える。

そして

「人に役に立たなきゃ、人に認められなきゃ、面白くしなきゃ」ということばかり考えたり、
「人の目を気にして、人に気に入られるために、儲けるために、時間をかける」ような生き方については、

ここでいう「人」が一体、誰を想定しているのかによって、美しいかそうでないかが決まる。

ここでいう「人」が、

お金をくれる人
自分をちやほやしてくれる人
自分の管理者
なんか怖い人

といった相手を想定している場合、これは美しいとはいえない。

そうではなく、ここでいう「人」が大文字の他者、つまり自分自身の美意識を規定している他者を想定しているのであれば、それは美しいふるまいとなる。


私を見つめる偉大なるものに恥じないよう、目の前の相手に尽くせよ、ということなのだ。




読みたい本がたくさんあります。