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京都生まれ京都育ちの女が就職で上京、いざ東京へ

自分の好きなことだけをして生きられる人種ではない、と思う。色々したくない苦労も全部糧にしてきた人生だったし、これからもそれが健やかにできたらいいなと思う。

でも、これは逃げだとも思う。失敗するのが怖くて、失敗しても想定済みだったことにすれば気が楽だらかそう言っているだけ。

それを分かっているなら好きなことをずんずん進めたらいいのに、できない自分を「分かってるのにやらない自分っていややなぁ」とスマホばっか見てしまう。失敗するのが嫌で何もせず、スマホを見ている。そう、勿体ないよなぁ。SNS見て時間を過ごしてる。

私は音楽ばっかり好きで、人の考えを聞くのも好きで、人を楽しませるのも好きで、色々あってもなんだかんだやってきた自分が割と好き。

それはどうなってもポジティブに捉える力がめっちゃあるからだと思う。そこに至るまでは割といつだってどんより、ぐったり暗かった。でも振り返ると全て今の自分のこれに繋がってこう素敵になれている、と思うことができる。それが良いか悪いかは別にしてそういう力が強い。

これはいつか書くかも。本当に、起こった出来事に意味づけをするトレーニングする人生でした。悪く言えばなんでも考えすぎる癖が付いた。


今、あたしは京都にいる。ほんで、就職で東京に行く。

母とは離れるし、京都は好きだし、何年かしたら京都に戻りたい!ってなると思う。絶対思うタイプの人間です。分かってる。

分かってるのに、じゃあなんで行くのか。

それは、今と「京都に戻りたい」と思うその時まで、を想像できないから。

京都で就職すれば、大阪で働けば、今まで築き得てきた人間関係は広がり、深まり、または疎遠になったりする。誕生日を祝い合ったり今より高いお店で美味しいランチを食べに行ったり、毎月藤井大丸でわざと一目惚れによる衝動買いをしに行ったり。母と休みをかぶせてお酒をたらふく呑んで語り合う良い、良い休みを過ごしたり。そういう生活だろう。そこそこ、いやだいぶ望んていた幸せがここには生み出されていくはずで、超いいと思う。

東京に行けば、旧友とも家族とも離れる。母特製のカフェオレを飲める機会も減って、これじゃあ本当に「おふくろの味」になってしまうて。寂しい。

でも、京都の地面から足を離して新幹線に乗り、品川に着いて東京の地面と繋がって、さぁ私はどんな毎日を過ごすのか。それが全然分からない。

でも、だからいい。私は、その期間を埋める日々を過ごしてみたいのだ。

京都からいなくなる私、リスタートをするんです。


それに、どうせ労働はクソである。
でもそれなら好きなものに関われる会社でなんでもやってみて、それで

「くっそーーーー!労働なんてクソやん!」

と言いたいのです。
(と青臭い若造は思っています、甘いこと言っていると思います....)

でも、まぁそんなことしてたら京都に戻りたいと思わなくなって東京に永住するかもしれないし、憧れの人がいる熊本に行くかもしれないし、ずっと行きたかった海外に行って住んじゃうことも全然あり得る。

何者でもない私はそうして何者かになっていく。


そう思っていたけれど、話を最初に戻させてください。これまで色々やってみたりサボったりして日常を送ってたら、最近だんだん、いやどんどん自分の人となりの輪郭がはっきりしてきた。

正直、それを好んでいない。見え隠れするようになった「これが私かも」が全然嫌だ。自分のことは好きなはずなんだけど、なんか良くない。ほらスマホも見てばっかだし。やらないといけなくなるまでやらないし。早くどうにかしたい。

その早くって待っててもないのよ。私は、未来は現実の生活と地続きってことを忘れて「この後」に希望を抱きすぎている。

いつか音楽を作りたい。いつか原稿を抱えたい。将来はエッセイやインタビューを受けたり、インタビューをしたり、人の想いを聞いて自分の想いを話して、仕事で私があなたが、ニヤニヤする瞬間を生み出したい。

それをする日々は本当は京都にもあるのかもしれない。でも、想像できない日々を埋めるという行為の主体は私である。主体的な日常を過ごしたいのだ。東京に行くんです。

東京で主体的な日常を過ごすなら、今でもできる。なんでもできる。スマホを見て、興味もないのに昔好きだった人のSNSを見て、なんだこれ。お前誰なの。

想像できない日々はどんどん侵略される。今日が、明日に繋がり、来週も今日の1秒が重なって、知らない間に月日は経つ。どんどん知っている日常になっていく。今の私が未来を侵略していく。

ADHDかも、何度診断してもENFP、多分「繊細さん」
ほうほう....でも、それが今のあたしである。

私のままで挑んだ面接で見てほしいところを評価してくれた会社で、目の前を大切に、やってみる。仕事をして人からお金を貰う方式で生きる、自分の憧れの人はやってないけど、あたしはその人とも違うよね。あたしはあたしで結構素敵。そう思いたいから余計やってみたい。


時間は有限で、いつか死ぬ。その後どうなるかは知らないけど、最近「生きることって実は暇つぶしかも」と思った。

ユニクロの店員をしていても気付かなかったけど、京都駅の地下パルコを歩いてお客さんが一人も入っていない服屋さんの店員さんがハンガーにかける服を入れ替えているのを見て、ふと気付いた。

みんな時給を貰って「店員さん」を演じている。

皆同じ人間だけど、客という相手あってあの人は「店員さん」をしている。

私たちは役割分担をしている。
コミュニティには、社会には、そういう役割分担が必要である。そうじゃないとお金が回らない、生活できない仕組みなのか、とまだ知識の足りない頭で思った。

で。ちょっとそれをやってみたい。
人と組んで、コミュニティの一員でお金を動かして、面倒くさいことを「面倒くさい」と言いつつ、社会の中で社会人をやってみたい。俯瞰したらただ結構多めの人数でちょこまかしてるだけだけど、そこで生まれる嬉しさや感動をやってみたい。一旦やってみたい。

すごいなと思う坂口恭平さんと私は違う。とりあえず今は違う。愛情が根底にあって、電話番号を公表して自殺したい人から電話を受け取っている坂口恭平さん。継続の天才で文章、絵、色々全部やって主体的な日常を過ごす彼は、シンプルに人間を本来の人間として生きている、すげえな世界がそう見えるのか、と毎日惹かれる。私は坂口恭平にはなれない、かもしれないけれど。

それがどう出るのか、ねぇ。坂口恭平さんの言っていることが分かってきた気持ちですが、それでもこのまま行ってみたい。いつか会いたいな。


ワクチンを打つたび、その時ちょうど坂口恭平さんの本を読んでいる。

打った後15分間の待ち時間、どんどん存在感を増す左腕を「左腕があるな」と思いながら本を読む。

その間に対応してくれるスタッフの皆は、本当に優しい。圧倒的な安心感と嫌悪感ひとつない温かさで、ちょっと多すぎるくらいの人数でわたしをたらい回しにして入り口から出口に運ぶ。その経路が嬉しくも悲しい。コロナにかかったり、けがをして救急車を使ったり、これ以上医療ひっ迫の一員にならないように生きます、と誓いながら歩く。ちょっとでも愛想の良い気持ちのいい若い子いたな、と思ってほしいから超愛想のいい人間をやる。

あなたの一日に数分登場する私。ちょっとでもいい気分になってほしいじゃん。

何が起こるか分からない未来に向けて、ちょっとしたサプライズがありそうな、生み出せそうな道を、私は自分で選んだ。きっと大丈夫。どうもないよ。

副反応でしんどくなってきたので寝る!今日も今日とて寝るのは遅い。

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