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「ヤダ」 #未来のためにできること

#20230906-227

2023年9月6日(水)
「ヤダ!」
口を開けばそういって睨む。
小学4年生のノコは、昨年の冬からちっぽけなことにも「ヤダ」というようになった。大人から見ると「ヤダ」といってもノコにとって得がないことにもいう。こちらの言葉がいい終わらないうちにいう。
こうなると、ただ「ヤダ」といいたいだけではないかと思えてくる。

里子のノコが里親である私たち夫婦と一緒に暮らすようになって、4年が過ぎた。
ノコは9歳、子ども歴9年だが、こちらはノコがはじめての子育て。親歴4年だ。この差は月日が経つほど埋まっていくのではなく、重くのしかかってくる。
児童相談所からノコを委託された当初、たくさんの願いがあった。
乳児院と児童養護施設で育ったノコに「家庭」「家族」というものを感じてほしい。いろんな体験をさせたい。いろんな所へ連れて行きたい。
思うあまりについ行儀や生活習慣、勉学についてあれこれ口を出してしまう。

――ママは、ノコさんのためを思っていってるのよ。
あなたが将来困らないように。
あなたが将来周囲から浮かないように。
あなたが将来ほかの人たちから嫌われないように。

確かにノコのためになるかもしれないが、「ヤダ」といって睨み、足を踏み鳴らすノコに「今」強要することだろうか。
子どものためといったら、できないよりできたほうがいいことは山ほどある。でも、こまかな砂のようなそれらを取り払った後に残るのは何なのだろう。

人のためにできることなんて、そんなにない。よかれと思ったことがよいとは限らない。
ノコのためにできることは何だろう。
砂をかきわけ、そこに残ったノコという小石はそこにあるだけ。
そこにある――存在を否定しない。
将来、困ってもなんとか乗り越えられるように。
将来、周囲から浮いても沈まず浮き続けられるように。
将来、人から嫌われても自分を見捨てないように。
人を信じようとする度にノコは大人の都合で断ち切られてきた。実親のもとから乳児院へ。乳児院から児童養護施設へ。児童養護施設から里親のもとへ。ノコの意思とは関係なかった。それでも存在するいる」のだから、ノコに生きる力はある

私ができることといったら、その力をつぶさないこと。
「ヤダ」というのも生きているからだ。
「ヤダ」はまったく嫌だが、ヤダといえるのはノコの力。
なんでもかんでも叶えられないが、未来のために私はノコの「ヤダ」を見ていよう。

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