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「親の目」が届かないところで、「親の心」を感じながら、秘密を構築するために。

#20230727-179

2023年7月27日(木)
 時折、家に親が常にいることがノコ(娘小4)にとってどうなのか考える。
 乳児院、児童養護施設と施設育ちのノコは、我が家で暮らして4年経ったが、「家族」というものが希薄に見える。まだ正式委託4年目なので当然だと思いつつも「親の目」が届かない時間もあったほうがいいのではないか、と私は迷ってしまう。

 「親の目」は感じないが、「親の心」は感じる時間と場。

 そのためには、まず「親の心」を感じていることが前提となるが、そこがノコは怪しい。「親の心」を感じずに「親の目」が届かない時間と場を設けると、「心安らかな自由」ではなく「見放されたひとりぼっち」になりかねない。
 だから、踏み切れない。

 是枝裕和監督の映画「怪物」をむーくん(夫)と観た。

 1本の映画のなかで、視点が変わる。
 はじめは母親の視点、それから担任教師の視点、最後に小学5年生の息子の視点・・・・・・
 事前情報ゼロで観たのだが、タイトルからサイコパス的なスリリングな物語だと思っていたら、もっと身近な日常の延長線にある展開に息を飲んだ。 
 それぞれの思いがすれ違っていくさま。
 追い詰めていくつもりはないのにそうなっていくさま。
 同じ出来事が視点が違うとこうも変わるのか!

 母親の視点では、息子への思いが心配という形になり、起きた出来事を一般的な型にはめてしまう
 そりゃあ、息子のスニーカーが片方しかなければ、何かあったと勘ぐってしまう。「いじめ」なんていう言葉を耳にすれば、ついそちらへ考えが暴走する。
 まさか息子がいじめにあって靴下だけで下校していた友だちにスニーカーの片方を貸したなんて思わない。息子も説明しない。
 母親にとっては息子がいじめられたあかしに見える片方だけのスニーカーは、友だちにとっては困っているときに助けてくれた心強い味方の証となる。

 仕事を持つ母親の帰宅は遅いようだ。
 息子とその友だちは、しばしば下校後に自転車で人けのない場所で遊ぶ。
 小学5年生だ。4年生のノコよりも下校時刻が早いことはない。急いで帰宅したとしても、多くの地域で推奨している帰宅時刻17時までそんなに時間があるとは思えない。多分2人は17時過ぎまで遊んでいる。
 友だちとの時間。
 ひとりの時間。
 「親の目」が届かない時間。

 それは危険と背中合わせのような、諸刃もろはつるぎのような、綱渡りのような危うさがあるが、私にはどうにも子どもの心の成長になくてはならないものに見えてしまう。

 振り返って、今の我が家にそんな時間や場があるだろうか。
 唯一ノコがひとり外出が許されている公園は明るく見通しがよくーー死角がゼロというわけではないがーー、友だちとひっそり身を寄せて談笑する茂みなどがない。家に帰れば、常に母か父がいる。こっそり自室に閉じこもれば「宿題やったの?」「もうすぐお夕飯なのに寝てないよね?」と覗きにくる。
 ゆっくりじっくり「秘密」を築くことができない。
 もう少し放っておきたい。
 せつにそう思う。
 ただそれには「親の心」感じられた上でないと、「孤独」に落ちてしまいそうだ。
 ノコはまだ今日と同じように明日があるという実感がない。
 今日いる場所に明日もまたいられると信じていない。
 「親の目」は届かないが、「親の心」を感じながら、安心してひとりを楽しめるまでまだ時間がかかりそうだ。
 それはいつなのだろう?
 ノコが「ひとりの時間」に身を委ねることができる日を私は待っている。

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