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きしょくてハマる、岡村靖幸。

 最近、共感性羞恥という言葉を聞くようになった。

「ドラマの登場人物が恥をかくシーンを見ると、まるで自分が恥をかいたかのような感覚に陥り見ていられなくなる」
「芸人がスベる場面になると、見るのが辛くなってしまう」
「キムタクの演技がキザで恥ずかしい」

 この感情が理解できる人は10~20%だというが、僕は完全にこの中に入っているはずだ。例えば、パーティーを開いたら友達が全然集まらなかったみたいな話があると涙が出そうになるし、痛いキャラクターの人を見ると恥ずかしくて耐えられなくなる。

 ところが、そんな僕が最近ハマっているアーティストがいる。30年近く前の映像だが、まずはこちらを見てほしい。

上下のジーンズに謎のダンス、率直に言って、めっちゃきしょい。

 なのに、何故か僕は毎朝この動画を見続けている。YouTubeのコメントで興味深かったのは、「本当のファンほどキモイと評価している」というものである。そのとおりである。

何故なのか。

(ちなみに、僕は全然彼の世代じゃないけど、調べたところ当時は許されたというわけではなく、この頃から多くの人にはきしょいと思われていたようである。しかし未だに人気は根強い。)

 90年代ごろからか、カッコつけるのはダサいという風潮ができて、無理して自分を飾らない「等身大」のスタイルが流行していた。代表例として奥田民生が挙がるだろう。

 この風潮は本来、「他人の目ばかり気にしてカッコつけるのはダサい」という意味だったけれど、結果として「飾らない自分を演出する」、民生になり切れない人が増えた。これは、他人の目を気にして自分を抑圧している訳で、実はとてもダサい。

 一方、岡村靖幸はどうなのか。彼は、「他人なんか気にしないで、自分がカッコいいと思っていることを、やりたいようにやっている」のだ。だから、あんなにきしょいダンスをしているにもかかわらず、カッコいいのである。

まとめると、以下のように図解できる。

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 まず、図の左側の人々は、他人の目を気にしている時点で、カッコつけていても等身大のふりをしていても、僕はダサいなと感じる。自信がなくて他人を気にしたり、見栄を張ったりするのだ。そういう人を見ると、時々恥ずかしさを覚える(共感性羞恥)。
 逆に、自分のやりたいようにやる右側の人々は、そもそも羞恥という概念から自由になっている。他人を気にせず等身大で過ごす民生と、他人を気にせず自分が信じるスタイルで踊る靖幸。いずれもやりたいように生きる人々なのである。

 だからこそ、一見痛々しく思えるにもかかわらず、岡村靖幸には羞恥を覚えるどころか、憧れの気持ちをすら抱いてしまうのだろう。

 むちゃくちゃきしょくても、それでもカッコいい。
 自分の道をゆくというのは、そういうことなのだろう。

カエル

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