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【小説】囁き

目次

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 増田は26歳にして独立し、自らIT系企業を起こしてその代表取締役社長となった。彼には大学時代に知り合った亀井という男がいた。大学卒業後、著名なベンチャー企業に亀井とともに入社し、揃って退社し、今回共同で起業した。

「まずは、乾杯だ」
 増田が音頭を取った。そしてグラスを手にした腕を亀井の方に伸ばし、二人はグラスを合わせた。亀井は感慨深そうにその音を聴いたが、まだ場に馴染めていないようで、目が泳いでいた。二人の間にいる赤いドレスのホステスは、グラスを手にしたまま身を引き、自分がスルーされていることで顔を曇らせながらも、祝福の表情に努めていた。
「君にも」ホステスの様子に気付いて、増田はホステスともグラスを合わせた。
「おめでとう」ホステスは首を傾け、嬉しそうに言った。
「今日は飲むぞ! みんなも飲めよ。祭だ! 独立起業記念祭だ!」

 起業して1週間が経っていたが、すでに取引先も多数確保し、万事順調だった。現在は増田と亀井を含めて5人での経営だが、オフィスは青山の外れにある6階建てビルの5階、ワンフロアすべてである。20人規模の広さだったが、すぐにその程度の人員を集めるつもりでいた。実際、集めなくてはまわらないほど、仕事を受けていた。

 5人の男はそれぞれの間にホステスを挟み、輪になって黒いテーブルを囲んでいた。シックで高級感のある店内には、やや似つかわしくない飲み方だった。増田は利発な好青年だったが、やはりまだまだ若い。周囲の中年サラリーマンからは、『気の早った若造がまた一人』くらいに思われ、冷ややかな視線を浴びていた。だが増田自身は、そんなことは気にせず豪快にやっていた。「今まででサイコーの気分だ。ようやく報われた!」

 一方亀井は、酒や女で羽目を外すことのない男で、増田や周囲の上機嫌に付き合いつつも、一貫して控えめだった。ホステスを相手にしても、まるで同僚に対するような話し方だった。
「今日の増田さん、一段とテンション高いですね」亀井の右隣にいた淡いグリーンのドレスのホステスが、亀井の耳元で言った。
「1週目が無事に終わって、安心感もあるんだろうね」亀井はうなずきながら言った。
「でもすごいですよね。ホントに独立しちゃうなんて、思ってませんでした!」
「アイツは凄いよ。おかげで俺まで巻き込まれて取締役だし」
「でも増田さん言ってましたよ。亀井さんがいなかったら、こんなに早く会社はつくれなかったって」
「ホント?」亀井はホステスを見た。
「ホントですよ」ホステスは笑顔で言った。
 ホステスの顔を見たまま物思いにふけったような亀井に対し、ホステスは少しばかり肩を動かして胸元を強調した。だが亀井はそれに気付くこともなく、テーブルのグラスを見つめた。
 ホステスは“自身”で気を引くことをあきらめて言った。「この前、増田さんが一人で来てたとき、しみじみ言ってましたよ。『アイツがしっかり脇を固めてくれてるから、俺が好き放題やれてるんだ』って」
 亀井は何も言わずにホステスを見て、〈分かった〉というふうに何度かうなずいた。ホステスは嬉しそうに笑った。
 亀井の背の方からは、増田の無邪気で大きな声が聞こえてきた。目頭が緩んできたことに気付くと、亀井はトイレへと席を立った。

 閉店まで過ごしたあと、酔いと熱狂を鎮めて、増田は貫禄あるクラブのママに丁寧に挨拶をした。「……というわけで、今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ。立派になってもたまには来てね」
「当然ですよ! で――、今晩はもういいですか?」増田はホステスたちに目をやって言った。
「ああ……、女の子がいいって言うならね。でも、後片付けもある程度はやってもらわないと困るからね。抜け駆けじゃ、不公平だから」
「分かってますよ」
 増田は赤いドレスを着たホステスと、外で合流する約束を取り付けた。
 亀井はそのままタクシーで帰宅した。
 社員3人のうちの二人は亀井と同様に帰ったが、一人は増田のように、だがかなりの口説きを経て、外でホステスと合流した。

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 起業して30年が過ぎ、増田は56歳になっていた。会社は存続していた。社員は最大30人ほどになったときもあった。現在は起業時と同じ5人である。だが起業時とまったく同じ5人ではない。起業時のメンバーで残っているのは、増田と亀井、それにあの晩帰宅せずにホステスと過ごした、村井という男の3人だ。
 増田は15年ほど前から拡大志向を捨て、裾野を広げず、取り扱い分野を特化し、ミニマムだが堅実にビジネスを進めることにしていた。オフィスは、同じ青山でも4階建てのもっと狭いフロアのビルに移転した。すると波乱のない、安定した経営となった。会社が存続しているのは、この方針変更によるものが大きかった。村井に言わせると、「増田さんが亀井さんになって、会社に亀井さんが二人いるみたいだ」という状態だった。

 増田は29で結婚し、子どもが二人できたが、35で離婚した。親権は母親のものとなった。その頃、会社はかなりの負債を抱え、増田は倒産も覚悟していた。夫婦仲は非常に険悪で、ほとんど話すこともなく離婚となった。一方の亀井は、恋人がいる時期はあっても、結局籍を入れないまま別れ、独身を貫いていた。

「ちょうど30年だな」増田がグラスを軽く掲げて言った。
「早いもんだ」亀井もグラスを掲げた。
 二人はグラスを鳴らさず、掲げることで乾杯とした。居酒屋での一次会が終わり、二人は場末のバーのカウンターに並んでいた。
 ウィスキーを一口飲んだ後、タバコに火をつけて増田が言った。「あの時はお祭り気分だったな。あの時期が最高だった。何の心配も不安も抱えてなくて、希望だけだった……。まあ、能天気な世間知らずだったってことだけどな」
 そう言って、増田はタバコをぼんやりとふかした。亀井は何も言えず、グラスを傾けた。
「覚えてるか? あのママ?」増田が訊いた。
「ああ、あのクラブのか? 覚えてる。いい人だった。」
「あそこのママ、少し前に死んじゃったらしい」
「そうか……。俺は10年以上行ってないからなあ」
「おれも1年に1回行くかどうかだったよ」そう言って増田は少し咳き込んだ。
 二人はしばらく言葉を交わさず、それぞれに思いを巡らせていた。

「俺たち、このままうまく老後迎えられそうだな」増田がニヒルな笑みを浮かべ、思い出したように言った。「”たんまり”ある内部留保は俺たちのもんだ。それが目減りしそうになったら、会社を潰しちまえばいい。みんなで山分けだ」
「うん……そうだな……」亀井の表情は曇っていた。
「どうした?」
「お前、本当は……つまらないだろ?」
「え? 何が?」増田は亀井の顔を見た。
「こんな経営が……」
「何言ってんだよ。いろいろあって、今ベストな経営ができてんじゃねえか。実際かなりうまく回ってるだろ。こんな時代に俺たちみたいな零細が……、奇跡だよ」
「いや、安定しすぎてるというか、守りに入ってるだろ。何にもチャレンジせず……。それに、将来が見えてるってのも――」
「ハッキリと見えてるわけじゃない。将来は何が起こるか分からない。このまま行けば会社も老後も大丈夫そうだけど、それは可能性であって保障はない。だったらこの安定した、ベストな経営を続ければいいだろ。俺は別にスリルなんか求めてない。そんな歳でもない」
 やや声の大きくなった二人に、白髪のマスターが眼鏡越しにチラリと警戒の視線を向けた。二人はそれに気付かなかったが、自ら制御できていた。マスターは警戒を解いて、次のグラスを拭きはじめた。

「――俺はさあ……」亀井がぎこちなく言いはじめた。「後悔してるんだ。あんまりにも事なかれ主義で、無難にやってきたことを……。こんな俺が近くにいたせいで、お前がチャレンジをやめて保守的になっちまったんじゃないかと思って――」
「そんなことはない。お前のせいじゃない。むしろ……お前の堅実さのおかげでここまで来れたと思ってるし、感謝してる。守りに入ったのは俺自身の選択だし、つまらないにしても俺自身の問題なんだ。お前のせいじゃない」
 増田は亀井の背を軽くたたいた。亀井は微かに震えて俯いた。

「そういや……」増田は晴れ間がのぞいたような顔で言った。「小耳に挟んだんだが、あの晩寝た子が、あのクラブに戻ってきててさ、今、彼女がママやってるらしいんだ」
 亀井は顔を上げて増田を見た。
「彼女があの店を離れてから、もう20年ぐらい会ってないんだけど……、彼女、もうなかなかのもんだったよ。今じゃ立派に熟してるだろうけどな」増田はニヤけた顔で言った。「久しぶりに、来週あたり行ってみようぜ!」
「ああ!」亀井は笑った。
 増田は気分良くタバコをふかし、たっぷりと煙を噴き出した。頭上に漂う煙を眺めていると、その先の丸くまぶしい灯りがメッセージを囁いたような気がした――守りに入ろうがつまらなかろうが、チャレンジしようがしくじろうが、歓喜に浮かれようが不幸のどん底に沈もうが、それらすべてを含む人生そのもの、こうして生きていることが、最高の祭なのだ――。そうだ、この瞬間も。

(了)

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