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デリカシーのないぼくが僕になるまで

協定その九:人を連れてきてはいけない。

「前から聞こう聞こうと思ってたけど、何でこんな大量に本を読むことになったんだ?うちの父親と母親なんてこれっぽっちも読みゃしないぜ」今でさえ読書の真っ最中だ。暇な時間さえあれば小説、教科書と読書に励んでいる。これほど読みこなしていれば一日少なくとも百個の熟語を新たに習得しているはずだ。毎日が新しい発見。世界は驚きで満ち溢れている。

 甲野さんは本から目を剥がすと、ぼくの方に顔を向けた。眉を一段階高くつり上げ、ぼくの声が届いたことをアピールしてくる。
「お前の父親と母親がどういう考えかの持ち主であるか俺は知らん。本を読むより有意義なことが両親にはあるのかもしれんな」
 ぼくは意外だという意味を表情で表現すべく、大袈裟にならない程度に眉を持ち上げた。「そうは思ってちゃいないんだろ」
 ぼくの発言を受け、甲野さんは満足そうににやりと笑った。締まりのない顔を上向け、後ろの壁にかけられた時計に甲野さんは視線を送った。「時間まだ大丈夫か」
「ああ、構わないよ。もうそんな年じゃない」


 甲野さんは時計からぼくの方に視線を下ろすと、品定めするかのように目を細めた。顔も引き締まったものに変わり、見るからによからぬ事を考えていそうな表情はやめてくれた。甲野さんは、ぼくの後ろにある背景も含めた全体を見て、何かを、見慣れない何かを識別しようとしているようだった。なぜ自分がここにいるのかわからない、それか目の前に立っているぼくのことが急に誰だかわからなくなった、とでもいうように。そんな、自宅における迷子の時間が少しの間続いた。でもぼくが眉を上げてやると━━これが甲野さんを我に返す鍵の一つだったのか━━甲野さんの目に焦点が戻り、視線を本の方へと戻してくれた。そういう視線は事情通な誰かに送ってやればいい。新米のぼくじゃなくて、甲野さんをよく知る誰かさんに。甲野さんは背表紙に手を差し込むと、まるで両開きになっていたそのページに後引かれるかのように、ゆっくりと本を閉じた。しばらくしてから、「これから話すのは俺が勝手に思っていることだ」甲野さんの口調が妙に改まる。「一般論ではないし、それこそ個別の事柄に当てはまるわけでは決してない」


 甲野さんは伏せていた顔を上げて、ぼくの方に振り向き返った。甲野さんの顔はのっぺりと均され、その中で、口元だけが歪んでいた。何かよくないものでも見てきたような顔だ。こんな甲野さんを見たのは出会ってから初めてのことだ。
「俺はこう思っている。本を読む最大の強みは人生で起こりうる様々な事象を、事前もしくは事後的に追体験できることだ、と」とても落ち着いた穏やかな声。声に元気がない。これも甲野さんにしては珍しいこと。作業している時は別として、いつもぼくを耳の遠いご老人のように扱って話しているから。これが一時的なものであればいいんだけど。まあ甲野さんなら大丈夫だろう。あれだけ運動して自炊もして僧侶並みに規則正しく生活しているのに、風邪を引いたらもうそれ以上やれることがないもんな。

「人生は不確定だ」甲野さんは床に向けて話し続けた。「何が起こるかは決してわかることはない。だがら面白いってこともある。だがその不確定ゆえに間違った判断、あり得ない決断というものを選択してしまう時もある。読書をすれば、その可能性を減らしたり、そのような状況に置かれた時にどのような対処、いうなれば最悪にならないよう想定できるようになる。俺はそのことに二十五六の時、フリーライターになる少し前に気が付いた」

 ぼくが薄暗い声に浸る中、その声の発信元である演説者は深く目を瞑った。まるでその当時に戻って行くかのように。その光景が、今も目の裏にはっきりと見えているかのように。それから甲野さんは隔てた歳月をかけてゆっくりと目を開けた。開けられた目には活気がなくひどく弱弱しかった。「もし本を読まずに、そして映画を見ることもなしに生きていたらどうなると思う?」少しわかりにくかったが、これは自分に言い聞かせるタイプの、自問自答型の質問のようだ。末尾のイントネーションの高さがそう告げる。そんなだから口は挟まないよう自制をかけた。その代わりに、演者の自信を高める喝采や共感を示す頷きはかけないでおいた。

「何か選択を迫られたときに頼れる相手が自分一人しかいないんだ。もちろん他人に相談はできるだろうが、聞いても同じようなもの。我が身以上に相手の現状に惚れ込んでくれるやつなんて一人としていない。それに真剣な顔で聞いてくれていたとしても、そいつにとって利益になるような判断をとかく下しがちだしな。たとえ例外はあるにしろ」甲野さんは腿の上で手を組み合わせた。祈っている、力になってくれる何かの存在を信じているというのではなくて、終わってしまった何かからの痛みを少しでも和らげたいかのように。自分でも叶わないと知りつつも、今度こそは何かが起こるかもしれないと望んでいるかのようだった。「本を読まないやつは、とにかく周りからの声をひどく気にかける」手を組み合わせたまま、甲野さんは話しを再開した。

「情報源はそこしかないから、まあ当然のことかもな。彼らは周りの人間と同じ選択をする。彼らは平均的なものを取るし、聞いた中で最も望ましいと思われる選択をする。つまり男であればできるだけ安定し、待遇のいい職を望み、女であれば世間でいういい男と結婚することを望む。働くのもいいが、少なくとも変な男に掴まりたくはないはずだ。給料の安定しない、先の読めない職業に就いている男とは。だが世の中全部がいい職であるはずはないし、世の中全ての男がいい男、つまりは家族三人を養えるお金を将来的に獲得する見込みがあって、性格にもあえてあげるほどのマイナス点もなく、顔を赤らめることなく友達に紹介できる目鼻立ちの整った男。そんな男がそこらへんにごろごろ転がっているわけがない。むしろほとんどの奴はそういう機会に恵まれない。なんて言ったって平均的な考えで動いているのだから、そこそこの物が手にはいるんじゃなくて、普通の、つまり望ましいものを何一つ持ってやしないものが手に入るはずなんだ。平均よりも下だってありうるかもしれない。それは当たり前のことだ。通って来た砂利道に、それ以上望むのは酷ってもんだ。そこで彼らはどうするのか。もちろん一つにはそれを拾ってすぐさま捨てるってこともあるだろうし、仕方なく我慢に我慢を重ねることも考えられる。子供が生まれりゃ大半のやつは我慢するしかなくなるだろう。そんなことをうだうだ言っていられるほど暇ではなくなるのだから。それで事が収まればそれでもいい。だがな、何か問題が起こってみろ。歯車が一つずつ狂い始める。まあ周りがみんなそんなもんだがら、何がいけないのか、何がおかしいのか彼らにはわからないかもな。修正しようと思っても参考にするものが何もないことに彼らは気がつく。気がつけばまだいい方だ。ほとんどの奴は対症療法的にぶち当たるしかない。もし夫がDVであったとする。不幸にも離婚して子供を引き取るが、自分のその状況を一歩引いて客観的に見ることができない。私は不幸だとか、夫が悪いとか、ただ不平不満をぶちまけることしかできない。それを近所の似たような境遇のやつら、もしくはより広範囲に呼びかけて一つの旗手の元に組織でも結成して慰め合うか、親にでも話して一時の気休めを貰うことしかできない。そしてその状況の中でどうにかやりくりして切り抜け、何十年か経ったところで、わたしはよくやったと自分を褒めたたえるんだ。そんな状況、無意味な地獄に追い込んだのは自分自身だというのに」ぼくは床の一点だけを見るように努めていた。甲野さんも決して動かなかった。瞬きさえもしないよう自制しているようだった。

「DVの男や、子供を抱え込んで自分は同情されるべき存在だと思い込んでいる女性の一体どこがいけなかったんだろう。どこか改善すべき点はなかったのだろうか。まあ彼女らに聞いても、まず答えは得られないだろう。私は一生懸命やってきましたって言われるのがせめてもだ。非難したくはないが彼女らは自分だけしか見えていない。内省しているといっても全く自分の声に耳を澄ましちゃいない。たかが他人の意見を自分のものだと、自分自ら考えたものだと必死になって思い込んでいるだけだ。そして他人の心情、皆が隠し持っている心の襞の奥底に分け入って考えたことなどないに等しいんだ。何か事が起こっても、彼らの範囲、つまり似通った仲間たちが知っている数少ない選択肢のうちからカードを切るしかない。男を選ぶとき、どうすればいい男に巡り合えるか、もしくはどうすれば手に入れられるだろうかとしか考えつかない。いい男がどういう女を選ぶだろうかということまで考えが及ばない。暴力を振るう男もそうだ。元の選択肢が少ないから、その中で選ぶしかない。彼にとっては腕力に物を言わせるのが最善の手だし、そうすれば非常に手っ取り早く済む。すぐ結果が目に見えて分かる。もっと長期的な目線に立たなければだめなんだ。まあそれを言うのなら、そういう状況やそんな家庭を作り上げた時点でもうだめだがな。仕事を選ぶ時であってもそうだ。自分のことを深く考えていない。作者が何時間もかけて主人公の性格を練り上げるように、自分の奥深くの感情に耳を澄ませたことなどあったためしがないのだろう。読書をすることだけに限らないが、日々の中から自分を内省する時間を全くもって選り分けていない。仲間の考えが彼、彼女のベースになってしまっている。それでは給料といったものが一つの望まれるべき要綱になるのは当然のことだし、給料を稼げれば妻は喜んでくれるはずだと考えてしまってもいた仕方がない。だがもしちゃんと自分に問いかけていれば、給料なんてある程度どうでもいいものだと考えるはずだ。もしかしたら感謝されるかもしれないが、たとえ感謝されなくても満足するはずだし、給料を稼いできたからと言って威張る必要はなくなる。それは稼ぐこと自体にはそこまでの価値を置いていないからだ。給料は、その仕事の価値、人の価値とはまた別個のものなんだ。もしくは下位の水準、たくさんある要素のうちの一つでしかない。評価の視点が目に見えるその形しかもっていないから苦しくなる。そうなってしまうのは当たり前だ。他人と比較できる基準で動いているかぎり、そこにはいつでも勝負がついて回るからな。勝者がいる一方、大半は敗者にならざるをえない。残念ながらな。違う視点に移ってくれればいいんだが、もっと悪いことにそういう奴らは得てして勝負が決まったあとでも価値というものが須らくそれから延びているという考えを抱きかかえて離さない。そして惨めな思いまでして稼いでいる自分、嫌な仕事を家族のために引き受けている自分は感謝されるべき存在だと短絡的に考えてしまう。するとどうなるか。家庭でのほほんとしたやつを見ると苛立ってくるし、そいつをどうにかしてせかせか動くように仕向けたくなる。日々感謝の気持ちを自分に表するよう強要したくなる。無理に言わせないまでも、顔や態度がそうなっていたとしたら同じことだ。そうなってくれば大概の場合家庭内はギクシャクしてくるし、もし嫁さんが耐えきれなくなればそれこそ離婚沙汰にならざるをえない。まあそこまでいかないにしても、家族のため、可愛い娘のためだとマントラのように唱える日々が始まる。そんな日々が続くにつれ、過労からくるストレスが溜まって窶れてくるだろうし自殺もしかねない。仕事においてもそうなのだから、人生においてもそれは敷衍されている。一つの価値に固執してしまう傾向だ。彼らは自分の水準で物事を見てしまう。他の価値観、他人がよしとしている価値観を許容できなくなる。例えば彼が勉強漬けの毎日を送っていれば、頭の悪い周りの奴らを頭の冴えないうすのろとしてしか見れないし、過酷なダイエットに日々励んでいるのであれば、太っている奴を醜い豚野郎としてしか見れなくなる。彼らは自分の都合に合わせて、その歪んだレンズを通した世界しか見れなくなっている。その価値体系の中でしか人を評価できなくなってしまうんだ。彼らは自分と同じ尺度でもって人を見做しがちになる。なぜなら決まった形に押し込むのはとても楽で安全だからだ。その型に嵌ってくれれば自分で判断を下さなくて済む。毎度毎度型を作り直さなくて済む。だが相手がその型にうまく嵌ればいいが、もし相手が彼ら独自に作りだした型に上手く嵌らなかったり、もしくは思い通りの行動を忠実に遂行してくれないと彼らはどう感じる?苛立つんだ。予想した行動を取らなかったことに対して彼らは不機嫌さをあからさまに顔に出す。自分で決めた型から相手がはみ出してしまって、おさまりが悪く不快に感じる。その型を相手に合わせ変形し直すには一度自分が間違っていたことを認めなくてはならない。それこそ彼らの最も嫌がることだ。自分を否定するということは自分の固執していた価値観を一度捨てることになる。自分の縋りついていた土台が脆くも一度に崩れ落ちてしまう。俺が思うに、彼らはもっと自由になるべきなんだ。そんな凝り固まった自己なんて早急に破り捨てるべきだったんだ。他にありうる自己の可能性を知っていれば、それほど一つの要素に固執することがなくなる。一つばっかりに目が行くということが少なくなる。そうなれば、ある一つの自分が否定されてもそれほど痛手ではないし、いつまでも悩む必要もなくなる。ある程度のバックアップがあるからな。次善の策だ。それに彼らはもっと許容することを学んだ方がいい。少なくとも人というのは彼らが思っているほど単純な生き物ではないし物でもない。良くも悪くも人間なんだ。彼らと同じ感情を持った一人の人間なんだ。自分の知らない世界に住んでいる、価値観もてんでばらばらな人間なんだ。彼らはもっと、自分と他人の心の有りようを学ぶべきだ。目に見えない部分のな。そうしないことには一歩たりとも進めない。自分の気分に合わせてしか人に優しくなれない。自分の都合でしか人に接することができない。ほら、拭けよ」ぼくは甲野さんに渡されたティッシュで頬に流れている涙をふきとった。床についたシミと頬に染み込んだ涙はティッシュだけではどうしようもなかった。

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