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1941年6月22日―大祖国戦争が始まった日、都合の悪い話し

6月22日、旧ソ連のほぼ全土で「記憶の蝋燭」に火がつけられ、各国の国民が改めて、大祖国戦争で命を落とした祖先の冥福を祈った。こんな日なので、少々都合の悪い(数字の)話しでもしてみようかと思った。では早速、そして手短に。

ウズベキスタンの「記憶の蝋燭」2022年

都合の悪い話し

割と知られている事だが、1941年にソ連を攻撃したのはナチス・ドイツ軍だけではなかった。もっと言うと、セルビアとギリシャを除く欧州の全域が総動員でソ連への侵攻を開始したのだ。スペイン、フランス、イタリア、ルーマニア、ハンガリー、フィンランド、チェコスロバキア、クロアチア等の軍隊および武装集団がソ連を襲って来たのだ。例えば、ベラルーシのブレスト城をオーストリア人、当時ウクライナ領だったセヴァストポリをルーマニア人とイタリア人が攻撃したのだ。あの小さなアルバニアですら、第21 SS武装山岳師団『スカンデルベク』をソ連に送り込んだ。皆、ソ連の一部を分捕ろうとしていた。
ハインツ・グーデリアンが率いていた戦車部隊の戦車操縦士の二人に一人がチェコ人だった。ドイツ人に劣ることなくロシア人を殺しまくった。一方の、ハンガリー人の懲罰隊員は捕虜にして行けないという指示が出される程、残酷な事をやっていたのだ。
レニングラード(現サンクトペテルブルク)やルジェフ近郊にはオランダの第11 SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」が大暴れした。他には、イタリア人、スペイン人、フランスの第33 SS所属武装擲弾兵師団 「シャルルマーニュ」から約6万人、スイス人、ベルギーからはフラマン人、ワロン人も最早喜んで参加していた。ヒトラー支持者のナチス軍は常に100万人以上の規模を保っており、1943年頃までは常にソ連軍と比べて人数的に優位だった。これに更に、ソ連人の反逆者約40万人が加わり、ソ連軍のみならず一般市民まで大量に殺したと言われている。ちなみに、この40万人の内25万人程がウクライナ人だった。ウクライナ人の他にはラトビア、リトアニア、エストニア、グルジア等からSSに加わった武装集団がいた。

様々なSS部隊の色別ワッペン、第二次世界頃

数字の話し:捕虜

捕まっても捕虜扱いされなかった反逆者のソ連人(国家反逆罪で裁かれた)と違い、捕虜として認められた人も当然いた。ここでその人数を思いだしてみたい。誤差があることは否めない、悪しからず。
ドイツ人:2,389,560名
日本人:639,635名
ハンガリー人(懲罰隊員が含まれないのか?):513,767名
ルーマニア人:187,370名
オーストリア人:156, 682名
チェコ人とスロバキア人: 129,977名
ポーランド人: 60, 260名
イタリア人:48,957名
フランス人:23,136名
オランダ人:14,729名
フィンランド人:2, 377名
ベルギー人:2,010名
ルクセンブルク人:1, 652名
デンマーク人457,
スペイン人:452,
ノルウェー人101名
スウェーデン人:72.
大祖国戦争が終わる頃には、ドイツ人捕虜を除いて、延べ150万人程の欧州人捕虜がソ連に捕まえられてた。

欧州各国のナチス部隊色別旗、第二次世界大戦

終わりに

皮肉な事に、当時ナチス・ドイツ軍に仲間入りし、ソ連を攻撃してきた国の中核を務めていた国々は今やほぼ例外なくNATO加盟国している。そして、5月9日に大祖国戦争での勝利を祝う露と違い、5月8日を和平と忌服の日にしている。つまり、未だに欧州と露の価値観と祝い事が異なる。そして、恐れながら、これからもその価値観の違いは解消されないのかもしれない。そうだとしたら、くれぐれも過去の過ちを再び繰り返してもらいたくない、欧州にも、露にも。

今日はここまで。

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