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不幸の中でも、生きる幸せはどこかにある。

 薬の効果で感情の起伏が薄れ、ひらめきがわかなくなったことにより、記事のネタを思いつかなくなってしまった。以前は2日に1日程度は記事を更新していたのだが、今はそれも困難になってしまったのである。精神性が老成してきていると考えていいのかもしれない。

 今回は、そんな風に、穏やかに現状に絶望しつつある私が『生きている上での幸せ』ということについて少し考えてみた。

 躁状態が酷い時に、頭の中が常に靄がかかり、思考が暴走し続け現実をなにも楽しめなくなってしまったことがあった。しかしシャワーを浴びた時だけ、頭の中がクリアになって、一時的に薬の副作用や躁状態から解放される感覚があった。その時に私は『なんて幸せなんだ、生きていてよかった』と心の奥底からシャワーを楽しむことができていた。

 あの時の感覚は、病状が少しマシになった今は得ることができない貴重なものであった。

 その当時は私は幸福ではあったが、客観的に見てしまえば、血流の流れがシャワーで良くなっただけなので、普通に考えれば病気の感覚が一時的に麻痺しただけの不幸な人間でしかない。しかも、おかしなことに、この時まで私はシャワーや風呂といったものを面倒だと思っていたのだ。

 私は今振り返ってみて、人間の適応能力というもののすさまじさを感じた。客観的に見て不幸になってしまったせいで、日常の何気ない生活に幸福を感じることができた良い例だと思う。

 だから、人間と言うものは、どれほど不幸な中であっても、生きていればどこかに幸せを見つけて前向きになることはできると思っている。私はそう信じている。

 これは個人的な意見ではある。これを読んでいるあなたはどう思うだろうか?幸福について考えるきっかけになって下さったのならば、私としても嬉しい。

ここまで読んで下さりありがとうございました。

生きることすら辛い世の中です。だからこそ、支援して下さる方々のサポートを、有難く受けとります。