天才になれなかったADHDの私へ捧ぐ
「ADHDの人には天才が多い」そのような記事も見られるようになりました。私もかつては「ADHD 天才」なんていう検索ワードをGoogleで調べていました。でも、何年も生きてきて「あ、自分は天才でもなんでもなかった」そう気が付いてしまった、そんなある日が来ました。
Googleで自分は天才であることの証明を探す日々
この特徴があるから、私は恵まれている。でも、こちらの特徴があることは自分は天才ではないかもしれない。なんて、占いで自分の都合を良い結果を探すように、自分が天才であることを立証するためにネットを渡り歩いていました。
「ギフテッド」と呼ばれるIQ130以上の天才児の中にはADHDやASDの傾向を持つ子も多いそうです。※ギフテッドの定義は「内在的な学習の素質、生まれつきの学習能力を持つこと」を指すようです。(出典:wikipedia)
ギフテッドを知るのにおすすめな映画
また、世界でもギフテッド教育についてはいくつも研究がなされています。
生きていて出会った本当の天才たち
私は飽き性で転職回数も多く、その分だけ多くの人を見る機会がありました。中でも驚いたのは、机の上はめちゃめちゃで情緒も不安定、おおよそ普通に生活をしていくのは大変なのではないかと思うような男性です。彼は物凄いアイデアと集中力で文字通り寝食を忘れて、あっという間にプログラムを開発してしまう優秀なエンジニアでした。
時に急に激高し周りの人に当たり散らして、本人もなぜそんな風に感情が動いてしまうのかわからずはっと気が付いて「こんなこと言うつもりはなかったのに...。」と首を垂れる姿は私が見ていても,なんと言葉をかけてあげれば良いかわからない気分でした。
一方で、数学やプログラミングに関しては彼に敵うものはいなく、ある意味でギフテッドな人物であったと思います。
自分が秀でているものを見つけられなかった
そうした天才たちを横目に「私にもいつかは」、「何が私の才能なんだろう」そうやって心の中では思っていたのです。当たり前の普通のことができない私には何か彼のような「天賦の才能があるはずだ」と。
私が「あ、自分は天才でもなんでもなかった」と気が付いたのは人に言われるまでもなく、自分自身でした。物凄く得意なものがない、そもそも子供のころは好きなものに集中していたのに、今は何が好きなものかもわからない。
与えられた仕事をこなすこともできず、ケアレスミスが続き、「何もできない日々」が続きました。
飽きっぽい私の「飽きっぽさ」を活かす
私が考えたことは「飽きっぽさ」を活かすことです。なるべく、新規性がありそうなことを選んでいく。同じ作業にも「新しさ」、「工夫の余地」を探してみる。また、勉強をするにも「この勉強は作業をどう変えるのか」考えてみる。
そして、ADHDの特徴である「感情の波」、「作業効率の波」を許容してもらえる場所を探すなどです。(これが難しいのもまた真実なので、今後お話ししていきます。)
私は天才ではなかったけどそれでもいいと思えた
天才に憧れる
というのは、ADHDやASDの特徴をもたない人にもあることかと思います。もしかしたら、当たり前なのかもしれませんが自分ができることを認られて、自分ができることで進もうと思えたら少し気持ちが楽になりました。
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