見出し画像

多く夜の歌 (エッセイ)

 夜の森に鳴いているのが、鳥なのか、虫なのか、わたしには分からない。

 もう何晩も続く熱帯夜に、ひとびとが寝静まったあと、部屋の空気は澱んでいた。牛革の一人掛けソファに凭れて、祈ろうとしたのだけれど、あまりの暑さに耐えられず、わたしは立って、山に面したベランダへ出た。

 戸外に出ると、風はかすかに動いていた。夜露と塩分をふくんだ風が。じっとしていれば、わずかに涼しいと感じられる程度の風。山の斜面に掛かった、すこしだけ広いベランダは、山の木々に覆い隠されていて、去年の夏に行った山奥のキャンプ場を思い起こさせた。

 山の向こうの、海の方角からだろうか、からからんかららと鉄パイプを引き摺るような音が聞こえてくる。何なのだろう、時々あんな音がする。耳が慣れてくると、二階で母が聴いているらしい、英語の説教の音も漏れ聞こえてきた。

 『多く夜の歌』という、宮柊二の歌集の名前を思い出す。日中に忙しい人間が、精神の広がりを持てるのは夜ばかりなのだ。広がりというのは、サンテクジュペリの言葉である。「しみじみと心に染み入るもの、それが心の広がりだ」と彼が言っていた。

 わたしがきちんと祈る習慣を持つようになったのは、つい最近のことだ。追い詰められなければ、本気で祈ることさえしなかったのだ。今から長々と懺悔を書こうか、それも詰まらないから止めておこう。

 「秘密の部屋を持ちなさい」
 と、ナイジェリア人のKさんがある日、説教のなかで言った。
 「キリストとあなただけの、秘密の部屋を」

 それは物理的な部屋のことではなかった。そんなもの独身のKさんならいざ知らず、小さな家に三世代で同居している我が家では不可能である。

 けれど彼の言うことははっきりと分かった。わたしは、いつもキリストと出逢う場所を、毎晩キリストと過ごす特定の場所を持たなくてはならないのだと。

 幼い子の母特有の、細切れ睡眠の記憶はまだ生々しかった。今でも子どもを寝かしつけて、自分も寝落ちしてしまったり、そうでなければ小説だの短歌だのエッセイを書くための時間として、夜の時間はいかにも貴重だった。

 けれどもわたしは、貴重な夜をキリストと過ごそうと決めた。子どもを寝かしつけ、夫も寝落ちた頃に、そっとベッドを出て、部屋の隅に向かう。そこで聖書を読み、それから椅子を下りて祈る。教会のひとたちのため、知人のため、家族のため、それから色々。あまり自分のためには祈らない。他のひとたちがわたしの為に祈ってくれているから。わたしが自分のために祈っているのは、"Please york me with your Holy Spirit" 《どうか私を聖霊と軛に繋いでください》と "Let me desperately fall in love with you" 《どうかあなたと必死な恋に落ちさせてください》の二つである。

 祈りなんて、そんな基礎中の基礎のようなこと。今までのわたしは歪だったのだ。夜ごとにキリストと過ごすことが、どれだけわたしを落ち着かせるか、そんなことも知らなかった。

 いまわたしの一日は、夜を中心にした独楽のように回っている。いつだってわたしは、秘密の部屋に帰りたくて仕方ないのだ。ひざまづいて、その日にあったことをキリストにぶちまけて、心配事も、不安もすべて。そうやってわたしは身軽でいられる。主はすべてを取り計らってくださる。

 暗い夜の森を眺めているうちに、目が馴染んできた。月は出ていないかと思ったが、もしかしたらあの杉の木の向こうに隠れているのかもしれない。山のどこかで水の滴る音が聞こえる。わたしにとって、広がりとは、すぐ傍に神を感じることだ。

 山の向こうの県道を、車がひっきりなしに行き交う音が聞こえてくる。ここは山奥のキャンプ場じゃなくて、我が家のベランダ、ただの住宅街の片隅であった。どこであろうと構わない。ここはわたしの秘密の部屋なのだから。祈りという武器について、もっと教えることがある、と主は言っておられる。わたしは楽しみで仕方ない。

 

 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?