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本の虫12カ月 4月


↓先月の分



Dear me
本屋に寄るたびに
積ん読を増やすのを、
当分止めてくださると
助かります。





「わたしたちが孤児だったころ」
カズオイシグロ

イシグロ作品三冊目。
「日の名残り」は、ちょっと曲がりくねっていて、
読みづらかった。二度読んだけど、「おだまり、ローズ」で知っていたアスター子爵夫妻だとかと
歴史的答え合わせみたいな読み方をしてしまった。
「浮世の画家」は、ふしぎな気味の悪いかんじ。
日本ついてなのに、日本の感覚ではないような、
居心地のわるい感じがした。
(意図されたものなのだろうけど)
それでこの「わたしたちが孤児」、
これがいちばん面白く読めました。
とっても読まされた。
文化の狭間に育つという題材、
イシグロさんらしい。
面白かった。


「キリストはエボリで止まった」
 カルロ・レーヴィ

かなしい嘆きの歌みたいな、民衆の暮らし。
無知と貧困、なにより精神の貧困。
「ある暮らしが悪いと分かっていても、
それから抜け出せるひとは英雄だけである」
というようなことばを、どこで読んだかいま思い出せない、チェーホフのシベリアの旅、
と書いてあった気がする。

留まることと、出ていくことについて
考えている。ほんとうは、どこに住むかなど
関わりないはずだのに。どこにいても、
真理につうじる狭い門を潜ることが
できるはずだ。それでもわたしが
今あるのは、前の世代が封建的な社会から
旅立って、自由な生活を作ってくれたからで、
わたしはその恩恵を大いに受けている。

イタリア南部の貧しい村の生活。
どこか日本の古い農村にも通じるような。
劇をとおして民衆が自らを表現する手法は、
たとえば信州の村に伝わる歌舞伎だとかを思う。

「わたしは貧しくあるすべも、
裕福であるすべも知っている」
とパウロが言った。
わたしはその言葉が好き。
貧しくあっても、精神は貧困に陥らないこと。
裕福であっても、成金のような精神に
成り下がらないこと。
パウロの精神は、物質的なものから離れた、
もっと上の部分にアイデンティティを
見いだしていたのだ。

それからどうでもいいこと。
この著者の恋人の、
パオラ・レーヴィ(オリヴェッティ) って、
ナタリア・ギンズブルグのお姉さんですか? 
なんかそんなことが書いてあった気もしなくないので、時間が出来たら、「ある家族の会話」を
見返してみようとおもう。


「武家の女性」
山川菊栄

なんどもなんども繰り返し読んでいる本!
幕末の水戸藩の武家の女性たちについて。
菊栄さんの聞き書きシリーズ大好き。
「わが住む村」は、義母の地元周辺だったため、
読んでみて、と押し付けて、あれ返ってきたっけ。
お義母さん、返してない本返すので、
あれまだ家にあったらください。

今回面白さを見いだしたのは、
日本が開国して関税自主権を失って、
どんどん産業が力を失っていった過程について、
女性たちの目線で、とても自然に書いてあったこと。綿花を育てて、糸を紡いで、という行為が、あっというまに女性たちから去っていった。
 菊栄さんはもちろんそれの時代的、政治的背景を記して、そして手仕事の、オーラルヒストリーの歴史といっしょに、すうっと分かる文章で書いてくれる。菊栄さんの歴史は、色があって、匂いと形があって、女のひとの目線で、だからわたしには分かりやすい。あのタイトルだけで引いてしまいそうな、「幕末の水戸藩」でさえ、読み通すことができたくらい。


「日本で軍事を語るということ」
高橋杉雄

正直、難しかった。
冗文や遊びがない。教科書みたいな文章。
 題名はこうであるが、内容は軍事学初心者講座。
いまこのくらいは知っておいてください、
国民のみなさん、みたいな内容。
オオカミ少佐のYouTubeのおかげで、
すこしわかった。
ごめんなさい、
バカはYouTubeで学習しときます。
後書きがいちばんすっと入る良い文章だった。

一時期、高橋杉雄と小泉悠という名前の
ニュース解説をわくわくして見ていた。
このふたりの組み合わせは鉄板だった。
高橋さんは小学生のときにクラウゼヴィッツの
「戦争論」を読んでいたという謎の秀才なので、
こういう文章になるのかもしれない。
でもこのタイトルで、わたしたちが
教えられてきた「憲法九条」と、
現実的な国際政治や軍備との葛藤みたいなのを
書いてくれたら良かったのになあ。
小泉悠さんは、ご両親は平和運動をされているのに、じぶんは軍事学者になってしまった葛藤を
どこかで書いていた気がする。


「エミリ・ディキンソン家のネズミ」
エリザベス・スパイアーズ

 エミリの詩を用いた、
絵本のようなみじかい寓話。
エミリをじぶんの友だちのように
感ずるのは、傲慢でしょうか。
いいえ、どう思われようと、
エミリはわたしの友だちなのです。
わたしは感じ方の近しい友だちを
ほんの少しだけ持っている。
生きている友だちと、
本で知っている友だち。
だから、わたしはとても幸せ。
なんて恵まれているんでしょう。

四歳の息子に読み聞かせたら、
とても気に入ってくれて、
もう二度読んだ。
「こんなにおもしろい本だとは
おもわなかったよ!」


「灯台へ」
ヴァージニア・ウルフ

子どもが遊び終えるのを待つ時間。
リュックには必ず本を入れておかなきゃ。
ウルフはなかなか良い。
どこから読んでもかまわないし、
さっと入り込めて、さっと出てこれる。
そして、なぜかそういう時間の方が、
じっくりと味わえる。
子育てに忙しいラムジー夫人は、
たいへん共感できる人物でもある。

キッズコーナー近くの椅子に座って、
ひとりで岩波文庫を読んでる
変な母親がいたら、
それ、わたしかもしれません。


「シャルロッテ」
ダヴィッド・フェンキノス

詩のように、行分けの文体で描かれる、
アウシュヴィッツで殺された26歳の画家、
シャルロッテ・ザルモンのものがたり。

すごい本だった。
けれどもし精神的に不安定なものを
感じているひとがいるなら、
この本は薦めない。
シャルロッテの周囲には
自殺者がたくさんいて、
シャルロッテ自身も、
もしアウシュヴィッツで殺されなければ
どうなっていたかわからなかった。
そういった悪い霊は、伝染するものだから。
たしかにすごい本だった。
 彼女をアンネ・フランクに例えるひともいる。
わたしはなんとなく、
パウラ・モーターゾーン・ベッカーを
思い出した。
読みながら、
気分はとてつもなく重い、重い。
疲れちゃった。


「カラマーゾフの兄弟」中
ドストエフスキー

上巻は二年くらい放置してやっと読み終えた。
 中巻は一週間で読了。
というのも、あのとてつもなく退屈だった上巻を
 読んでもいないのに、母が中巻から読みだして、
わたしが独占できなかったからだ。
母曰く「(退屈な上巻なんて) 後から読み返せばいいでしょ」ずるい、なんてずるいんだ。

ロシア人、すごいな、破滅的。
最後は刑事物になる。
推理小説はほとんど読んだことがないので
(東野圭吾を一二冊と、アガサクリスティを
少ししか経験がない)
すこし戸惑う。読み方がわからん。

ミーチャが裸にされて戸惑うシーン、
これはキリストを象徴しているのか。
聖書との暗喩はなんとなく読み解ける。
きっとミーチャは無実なのでしょう。


「カラマーゾフの兄弟」下
ドストエフスキー

「戦争と平和を読み通したで賞」
は十代のときに獲得した。
そしていま、
「カラマーゾフを読み通したで賞」
を三十手前で得た。
あともうひとつ、
「失われた時を求めてを読み通したで賞」
というのも存在するんだけど、
それはいつになるか分からない。
この人生では無理そう。

いや、さすがのカラマーゾフでした。
ここから怒涛のドストエフスキー祭りでも
始まるか、とか思いつ、
なぜかジェーン・オースティンのエマを
手に取っていた。
はっはっは。

感想がめっちゃぺらぺらなのは、
読み終わったのは昼なのに、
感想を深夜に書いているからだよ。
(印象の持続時間の短さよ)


「ロシア点描」
小泉悠

このひとなら、米原万里と高野秀行
(あと何でしょう、沢野ひとしや椎名誠?)
を足して割ったみたいな、きっとおもしろい
エッセイを書けるとおもう。
だってあのTwitterだもの。
だから、あれ、と思った。
途中で筆が乗ってきたかな、とも思ったけど。
けれど実際のところ、これは語り下ろしの
手法で、彼の語ったことを編集者が
文章にして、それに手をいれたらしい。
まあ、あれだけお忙しいのですものね。
それだけ、タイムリーな需要があったわけだ。

ぜひ、いつかもっとゆっくりと書けるような
時間がやってきたら、渾身のエッセイを書いて
いただきたい。このひとが、じぶんでも
良し、と思えるようなエッセイを読んでみたい。


「小さな徳」
ナタリア・ギンズブルグ

一冊一冊、導かれて読むような本がある。
星を繋ぐみたいに、生きながら考えていることを
そのときそのときに支え、示唆し、
導いてくれるような本が。

 幸田文に似ている、と思ったのだけど、
ギンズブルグにそう感じたひと、
他にいらっしゃいませんか。
お金の使い方、なんてところは、
ああ、文さんもそんなこと書いてなかった
かしら、と思った。それだけでない、
なにか、女性としての在り方。

ある年齢から、母のスカートの後ろを離れて、
じぶんでどんな女性になるかを決めなくては
いけなくなった時から、
わたしはいつも、何かじぶんに近いものがあり、
そしてわたしより遠い場所にいるひと
を探している。 傾倒したいわけじゃない。
ただ、こんなふうに感じてもいいのよ、
こういうふうに進んでもいいのよ、
と頷いて欲しいのだ。
そして背中を押して欲しい。
同じ人間であるからには、
わたしが感じるものを感じて
それを言葉にしたひとがきっといる。
そんなひとをいつも本で探してる。


「現代語訳 吾妻鏡」

鎌倉殿を見ていたころから気になってて……。
このあいだハイキングに行った近くの寺に、
源実朝が参拝にきた、と書いてあって、
へえ、きっと吾妻鏡に書いてあるんだ、
と借りてきました。うん、見つけた。
吾妻鏡、三浦半島に住むわたしにとっては、
古典というより郷土史料だ。
ああ、あそこね、と分かっちゃう。
あとあと、遠い先祖だろうひとの
名前を見つけた。泉親平の乱に加担して、
捕まっていた……。信濃の国でしたものね。
そしてわたしの住む場所を
所領にしていた武士の名も見つけた。
同時に金塊和歌集も読んでいる。
やっぱり同じ風景をみて詠んでいる歌だからか、
なんだか好き。偉大な歌人なのもある、
でも、地元の有名人っていう気がすごくする。


「真珠湾攻撃総隊長の回想」
淵田美津雄自著伝

ねえ、これはすごい本ですよ。
こんなに大胆に、まっすぐに、
日本人がキリストについて語るなんて。
わたしがクリスチャンじゃなかったとしても、
この本を読んだら、聖書を読んでみようと
思うかもしれない。
わたしも、こんな本を書いてみたいな。
心にふれる、力強いことば。
誰かに、キリストを欲しがらせるような本を。

キャプテン・フチダは決して卑屈ではない。
卑屈なGHQ史観に真っ向から反対している。
とても優れた海軍軍人で、
物の見方はとても開けている。
頭のよいひと。
それなのに、キリストについては
頭がいかれてしまっているのが良い。
パウロもそんなひとだったでしょう。
何かひとつのことを究めたひとが、
突然方向転換してキリストにひた走る。
荒削りなのは、力があふれているから。

軍人として到達した死生観と、
キリストに倣うものとしての死生観に
共通点がある、という話が面白かった。
ちょうど、わたしも似たことを考えていたから。


番外編
コテンラジオ

家事をするときに、なにか小難しいものを
聞いていないと落ち着かない。
いまは宗教改革。
なぜかカノッサの屈辱辺りを、
なんどか本で浚って理解しなおしたところ
だったので、いろいろな知識が
繋がっていく感覚がする。
 脳みそがきしきしするくらいには、
なにかを考えさせられているらしいんだけど、
まだそれは形になっていない。
ただこうやって考えていることが好き。
それはわたしがわたしらしくあることだ。


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