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毎日noteを更新して、90日目の経過報告。

毎日noteを更新して今日で90日目だ。
だが、あえて区切りを意識しないようにしたいと思っている。
90日目だけが特別なのじゃなくて、1日1日が、90回あったというだけだから。そしてこれからも続いていく、続けていく、と思っているから。

とはいえ、通過点としての90日目の段階で、思うことを書いておきたい。

1か月くらい前、noteを続けていくために、「書き方に関する本や投稿を、極力読まない」ということを書いた。外部からの影響を、最小限にしたかったからだ。

それには、理由もある。
noteを始めて1か月が経った頃、ある人の投稿を読んで、くじけそうになったのだ。「毎日連続投稿とかってやっている人、なんでそんなに必死なの?」みたいな内容だったのだけど、その記事にはたくさんのスキがついていたし、その人の語る言葉は、そのときにはもっともに思えて、自分がやっていることを無意味に感じてしまったのだ。

外からだけでなく、自分の中からも、毎日のように正論を振りかざす声が聞こえてくる。

一番は、

「これ、書いて、意味あるの?」

だ。とたんに書く手がとまる。

例えば、毎日、自社のオウンドメディアの記事を更新することが仕事だとしたら、何があったって書くしかない。しかも読み手のことをあれこれ考えて、読まれる文章を書くために、血眼で勉強するだろう。大勢に読まれている記事や話題になっている記事を読んで、様々な角度から分析するだろう。

例えば、毎日、自分が更新することが、どこかの誰かの病気の回復や励ましにつながるのだとしたら、やる意義が感じられるだろう。その人の闘病の助けになるという大義名分があるのだ。眉村卓さんが、余命一年と宣告された奥さまのために毎日一篇のショートショートを書き続けたというのは、これに近いかもしれない。


だけど、自分が今やっているnoteは、明確な意味づけがあるわけではないし、何かや誰かに強制されているわけでもない。自分でやりたくて勝手にやっているだけだ。だから自分なりに、毎日noteに向かう意味を、自分で見つけて、折り合いをつけて、自分を駆動していく必要がある。

そう思っていても、正論を振りかざす声は内からも外からも、どんどん聞こえてくる。

「続けることが目的化しても、しょうがないんじゃない?」

「誰の役に立ってるの?誰の役に立ちたいの?」

「何のためにやってるの?ただダラダラ毎日書いててもしょうがなくない?目的が明確じゃないと、どこに力を集中したらいいかわからないでしょ。もっとテーマを決めて、構造的に書いていったほうがいいんじゃない?」

もっともだ。もっともだよ、その通りだよ~、と思う。

ちゃんと目的、戦略、そのための打ち手、を考えたほうがいいのかもしれない。でもそれは今はやりたくない。それだったら、毎日noteに使っている時間を全部、他のことに投下したほうがいいという気がしてくる。そうなってくると、noteをやめるのは簡単だ。やめる理由も、たくさん浮かんでくる。


そこで、はたと立ち止まる。

そもそも、なんらかの行為を続けていこうと思っている人の心に、目的や意味がないわけがない。言葉として明確になっていないかもしれないが、願い、祈り、希望、期待、目指す姿、そういうものがあってその人にその「続けるという行為」をさせているはずだ。

だから目的を明言することそのものに、あまりこだわらなくてもいいんじゃないか。

というのは、私の場合、そういう目的、目標、意味、みたいなものを先に決めて、そこに向かって努力するという構造から抜けたいと思っていることが一つある。この構造の中にいると、これまでの自分のパターン通り、他者評価の罠から抜けられなくなってしまうのだ。人から認められるために頑張っちゃうのだ。

さらに、毎日「書きたいことを書く」プロセスで何が起こってくるかを感じて観察することが大切だと思っているので、余計な変数はなるべくないほうがいい。だから、多くの人に読んでもらうことを狙っての文章は書かない。それは自分の「書きたい」よりも「読んでもらうため」が優先になってしまい、またまた他者評価ドリブンになってしまうから。「書きたい」ことを書いた結果、読んでもらえるか読んでもらえないかは、現状では、自分の「書く」行為の外側の話だ。


ただ、そんなスタンスでこの先も続けていったとして、365日経っても、たいして何も変わらないかもしれない。石の上にも3年というけれど、もしかしたら3年経っても、たいしたことは何も見えてこないかもしれない。時間が経ってから、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔をするかもしれない。

でも、365日継続すれば必ず、365本の記事と、365日継続して書いたという事実、は残る。
その365本の記事と、継続して書いたという事実から何を得るかは、365日後の自分のmatterだ。今の私の、じゃない。だから、あれこれ意味を考えてもしょうがないような気がするのだ。


少なくとも、「何も得ないことはない」ということは(言葉遊びみたいになってるが…)90日目の時点で言える。

日々、何かについて書こうとしたときに、自分の心に起こることと向き合うことができる。だいたい、すぐにラクな方に逃げようとする自分を発見するのだが、それ以外の新しい発見もある。それは別に「書く」じゃなくて、ランニングでも筋トレでも料理でも瞑想でも、何でもいいと思うけど、そういう何かしら、心に抵抗や負荷を感じることを毎日続けるということ、それだけで確実に「意味」はある。

さらに今朝、歩きながらふと思った。

チームだと思おう。
私は、駅伝のように、チームでnoteを更新しているんだ
、と。

毎日書いていると、たまたま調子が悪い日もある。でも今日という自分の区間は、誰かに変わってもらうことはできない。誰かに助けてもらうことはできない。今日の私がたすきを繋げられなかったら、ここまで走ってきたみんな(過去の自分)と、次の中継所で待っている仲間(明日以降の自分)に申し訳ない。

そんなとき、監督(メタな視点の自分)は、なんと声をかけることができるだろうか?
その区間(今日の自分)で、大幅にペースダウンしたとしても、みんなで積み重ねて挽回することができる。だから、一歩一歩足を前へ出し、昨日の自分からもらった襷を、明日の自分に渡そう、そう言うはずだ。


ミクロにみれば、今日という1日の中でだって、チームプレーをしているとも考えられる。

朝のまだ体力がある自分。
できるだけ前に進んでおこう。書けるところまで書いておこう。

昼休みの自分。
夕方投稿するときに少しでも負担が減るように、足りないところを書き足して、文章を整えておこう。

夕方の自分。
少し疲れて頭がぼーっとしているけど、客観的に読み直して、全体の整合を取り、投稿しよう。

夜寝る前の自分。
再度読み直して、誤字脱字とか話が飛び過ぎてわかりにくいところがないか、念のため再確認しておこう(結構あるんですよね笑)。

そうやって、分担して取り組めば、そのときどきの自分の負担は減る。

単に私が箱根駅伝が好きなので駅伝のたとえで書いたが、別に駅伝じゃなくてもいい。何かしら「自分はチームでnoteを書いている」と思えたら、少し気持ちが楽になるんじゃないだろうか。今できることをやって、襷を渡す。それがいいか悪いかではなく、そちらの方が続けやすくて、明日につながるのなら、それでいいんじゃないか。それがいいんじゃないか。


実は、昨日は、なかなか書けない日だった。
書きかけてやめて、書きかけてやめて、を繰り返し、7つ目に書いた記事でやっと、最後まで書けてUPした。そしてevernoteに6つの下書きが加わった。でも、6つの「ボツ原稿」があったわけじゃない。6つの「新しいアイデア」が新たに出てきたのだ。だから昨日はあんまり書けない日だったわけじゃなく、アイデアを6つ出した日と言える。

「書きかけてやめた」からといって、それで終わりだと思わなくていいんじゃないか。昨日新たに出てきた6つの下書きは、いわば「種」だ。まだ芽は出ていない。ただ昨日の私がその種を何気なく蒔いたのだ。そして、その「種」は育てていける。今日の私、明日の私が、考えて言葉にしてみることで、芽が出て育てば文章となり、それが一つの投稿になっていく。

芽が出ずに、一生下書きとして埋もれてしまう可能性もある。それは植物だって一緒だ。芽が出ない種もある。芽が出たって、間引いて抜かれてしまうものも多い。でもそんななかで、育っていったものが、花を咲かせ、果実を実らせ、新たな種を落とすのではないか。何が花で、何が実なのか、今のところはまだよくわかっていないけど。

そうやって「noteを毎日書く」ことを、「襷を渡しながらつないでいくこと」「種から育てていくこと」と思えたら、正論を振りかざす声が内外から聞こえてきても、大丈夫じゃないかなと今日の時点では思っている。


今のところ、私にとって、noteに何かを書くことは、エッセイや小説などの作品をつくるとか、自分なりの考えを論拠をもとに主張・提言するとか、そういうところの少し手前にある。

漠然とした状態で自分の中にある、記憶、経験、思い、違和感、もやもや、もわもわ、などの「断片」を引っ張り上げて、からまりあっているものをほぐしながらいらないものは捨て、残ったものに言葉を当てはめる。その言葉をどうにかこうにか組み合わせて、なんらかの意味を表す一つのまとまり(かたまり)に組み上げる、ということをやっている。これを「表現」というのか、他の何というのかはわからないけど、そういうことだ。

その「断片を汲み上げる」筋肉と、「フィットする言葉を当てはめる」筋肉「意味のまとまり(かたまり)を組み上げる」筋肉を、それぞれ鍛えようというのが、一応、毎日のnoteで取り組んでいることだ。

なので、出来事や行動を書いた日記とか、なんとなくのつぶやきのようなものは、ここに書いた限りではない。それはたいして書く筋肉を使わないので、筋肉を休ませる時間だったり、チートデイみたいな感じの位置づけと自分では思っている。本当は、日記も、負荷をあげて書くことはできるのだけど、それはもうちょっと先の話。話がややこしくなっちゃうので、今日はここまで。

経過報告は以上です。

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追記:
これまで「書く」ことについて書いた投稿をこちらにまとめました。そのときどきの思うことを書いているので、おそらく時系列に読んでいくと、「書く」ことに対する姿勢や心の変遷が、浮かび上がってくるのではないかと思います。

今日の記事を合わせて16本。

似たような内容が連続しないように、毎日noteで書く内容の毛色をちょっとずつ変えています。「書く」に関しては週に1回くらいにしているのですが、ちょうどそんな感じの本数になっていました。そのうち、「読む」、「聴く」、「話す(対話する)」などもまとめていこうと思います。もともとは、「対話」というのが、私の一番どまんなかのテーマだったので。

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