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書くことは、「はじまりの海」に帰ること

noteに継続して書き続けようと思ったときに「やらないと決めたこと」があります。

書き方に関する本や投稿を、極力読まない。


私は受験生だったはるか昔から、勉強法を知ることが好きで、勉強法の本を集めてはより効率のよい勉強法は何か?と何冊も見比べて、それで満足して勉強せずという、ちょっと努力の方向がずれている子どもでした。

その傾向は年を重ねても変わることなく、料理の本を買って満足し、掃除や部屋づくりの本を眺めて満足し、何らかの講座やセミナーに行ってはわかった気になり、ということを懲りずに繰り返しています。

書くことについても同様で、今このPC机の横の本棚に、シナリオやら小説やら論文やら、ふつうの文章やらの書き方の本が、全部で60冊くらいあります。それぞれを学び始めたときや仕事で取り組んだときに買い集めた本ですが、全部読んでるかというとそんなこともなく、ただあると安心するという保険のようなものです。

noteではとにかく「歯磨きのように、書くことを習慣にする」ことがまずは第一の目標だったので、初期にそういう書き方の本を読んでしまうと、「自分、できてないじゃん」と落ち込み、フリーズし、手も足も出なくなるという状態になるのは目に見えていました。それはなんとしても避けたい。

ということで、書き方に関する本や投稿は、一定期間読まないようにしようと決めました。

スキがたくさんついている「noteの書き方」みたいな投稿も、noteを見るたびによく表示され、しかも他のどんなタイトルよりも目に留まるので、喉から手が出るほどクリックしたくなるわけですが、なるべく見ないように見ないように、と意識してセーブしていました。以前にも引用した西村さんや吉福さんの言葉を思い出しながら。

経験が十分でないうちに他人が整理した言葉や視点、価値観や要所を得ると、むしろそこで失われてしまうことがあるということ。たとえ内容が本質的で真理を突いていて、きわめて普遍性の高いものであっても、他人の言葉を通じて知ることと、自分の経験を通じて感じ、掴み取ってゆくことの間には大きな隔たりがある。(『かかわり方のまなび方』 西村 佳哲著)
説明を聞いてしまうと「私は知っている」という気になる。「知っている、わかっている」という意識が経験と自分の間に入ってきて、一種のブロックになってしまうんです。体験的に実感していないままだと、上滑りのような形でしかなくて、みずからにまったくおよんでこないんです。(『世界のなかにありながら世界に属さない』 吉福伸逸著)


知識が先に入ると、体験からつかみとるものよりも、薄まったものになってしまう。それは自分の身体の一部ではなく、借りてきた衣装のようなものだと考え、書き方の本や投稿からは、しばらくの間は目を背け、それこそ裸で踊りながら(書きながら)自分なりの何かをつかんでいこうと決めたわけです。


毎日、何かしら書いて60日くらいですが(1500字~3000字くらいが結果的に多い。引用も多いです)、必ずぶつかる壁というのか、判断することがたくさんあります。

何について書くか。どんな構成で書くか。自分はそのことについてどう思い、感じているか。それを言葉でどのくらい描写するか(できるのか?)。書いてみてフィットするか。フィットしないなら何がどう気持ち悪いのか。

判断するなかでも、「わからない」、「できない」、「苦しい」、「どんづまる」、「ごまかす」、「逃げる」、などいろんな小さい壁にぶつかります。壁というか、ひょいっとすぐには超えられない段差のような。そのたびに焦り、おろおろします。

そこでしばし立ち止まって「うーん」と考えたり、自分のなかをサーチしたり、自分の外をサーチしたり(Googleや本、過去の記録など)、その「さがす」「あがく」「もがく」「よじれる」ような積み重ね全部が、私にとっての「書くという動的体験」そのものであり、全部ひっくるめて「書く」であるわけで。

とはいえ、うまくいかないことも多く、「何かよい方法はないのか~」と、書くことに関しての「飢え」や「渇き」はたくさんたまっていきます。自分なりの工夫ではどうにもならなくて、からっからに乾いたスポンジのように、吸収する気まんまんになるわけです。

たぶん、3か月とか半年とか、もしかしたら1年くらいたって、ある程度「note書かないと気持ち悪い。寝れない」という習慣になった頃に、自分が足りない部分、伸ばしたい部分などの、「飢え」や「渇き」を持ってそういった「書く」に関わる本や投稿に当たると、

「うんうん、そういう体験した!」ということもあるだろうし、「ビンゴ!」という大当たりや、もうよだれじゅるじゅるのご馳走のようなアイデアとも、ご褒美のように出会えるのではないかと思っています。


長々と前置きを書きましたが、そう言いながらも、一冊だけ、読み返した書き方の本があります。

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最初に出会ったきっかけはもうすっかり忘れてしまいましたが、Amazonの購入履歴をみると2009年11月。その頃も「書く」ための参考にこの本を手にしたのですが、読んだ瞬間「ビビビッ」ときたんですよね。著者の津田広志さんの表現のしかたというか、文章から伝わってくる質感に。津田さんは、長らくフィルムアート社で編集長をされていて、数々の表現に携わってきている方です。


「はじめに」で津田さんは、デジタル化された現代のメディアの下では、デリケートな手触りや気配、ようするに「質感の情報」が入ってこない、ということを危惧しています。

しかも、手軽にできる小手先のテクニックにたよった「リ・クリエーション(改良)」表現が多くなっている。似たり寄ったりの、あたりさわりのない「うまい、きれい」な表現をしてしまうことが増えているんではないか、と。

そこで津田さんは「リ・クリエーション」に「再・創造」という訳をあて、クリエイティブの原点に立ち返ることを薦めています。

クリエイティブの原点に立ち返るとは、比喩的にいうと、「はじまりの海」へ帰ること。

「はじまりの海」とは、発想がこれから生まれようとする源の「海」のような状態を指します。私たちは、何かを見たとき、誰かに会ったとき、なにか不思議な海の「波」のような揺れをいつも感じています。さまざまな雰囲気、リズム、イメージ、さらに過去の思い出など、大切な「質感の情報」が総動員されて「海」の中でたゆたいます。言葉に今からなろうとする混沌とした無数の波、それが「海」です。この「海」は、「質感の情報」がつまった豊かなパレットです。
まず、この「はじまりの海」に帰ること。それだけではありません。次に「海」から言葉を持って岸辺へもどる。
たんに海に浸かっているだけでは混沌とした状態の表現者です。不必要なものを捨て、自分が正直に信じる言葉を打ち立てるのです。
波うちぎわに、砕かれながらも、あなたの表現がたどりつくように。「海」から岸辺にたどりついた表現には、核心からわきあがる強さや自由さがあります。その言葉やイメージが、現代の本当のリ・クリエイティブな表現だと私は思います。


これは「はじめに」に書かれていることのごく一部です。この後の本編では、「言葉に今からなろうとする混沌とした無数の波」の中から、「自分が信じる言葉を打ち立てる」ための様々な取り組みが紹介されていきます。


仕事で「書く」ことには10年以上取り組んでいても、自分のことを書くことや、自分なりに表現することはまだまだ不慣れ。謙虚に体験から学ぼうとしている途上です。

書くことは、いつも「はじまりの海」に立ち帰ること。

この本は、私をその「はじまりの海」に、いつでも、すぐに、運んでいってくれる。その原点を忘れたくなくて、今日、推薦図書として、ご紹介しました。

ここまで読んでくださったあなたの表現が、力強く、波打ちぎわにたどりつきますように。



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