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どこかの誰かにとっては居場所


2024年6月28日(金)朝の6:00になりました。

常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う。

どうも、高倉大希です。




生まれてこの方、クラブと呼ばれる場所に行ったことがありません。

どうしても、パリピが集まる賑やかな場所という印象があります。


クラブに、通っている。

そうと聞くと、自動的に「チャラい人なのかな」と想像してしまいます。


先日、tofubeats さんの『クラブ』という曲の MV を観ました。

そこに寄せられていた、ひとつのコメントを紹介します。


クラブはでっかい音がたくさんあって良いところです、誰とも話さずにもくもく自由に踊る人がいたり、最近でた新譜を語り合う仲間がいたり、誰かの居場所であり続けています。昨今の報道でクラブに偏見をもってしまっている人は事態が収まったら一度遊びに行ってみて欲しい。(男女料金が均等な所!)無理に誰かを救おうともしない、朝までただ鳴り続けるビートと低音に救われている人がたくさんいます。

tofubeats(2020)『クラブ』に寄せられていたコメント


このコメントを読んで、衝撃を受けました。

自分が偏見をもっているだけで、どこかの誰かにとっては居場所なんだ。


朝までただ鳴り続けるビートと低音に、救われている人がたくさんいるんだ。

そう思った瞬間に、なんだか急に羨ましくなりました。


吉本隆明さんが書いていた、銭湯の話とよく似ています。

大勢の中の孤独を味わえるのが、銭湯であり、クラブなのかもしれません。


銭湯というのは大勢人がいるけれども、誰とも口を利かなくても別におかしいことはない場所です。見ず知らずの人たちの中で、自分もみんなと同じことをしている。でも、一人でいることができるのです。つまり、大勢の中の孤独ということです、そういう状態というのは安心感がありました。

吉本隆明(2020)「ひきこもれ」大和書房


逆に言えば、学校という場所の苦しさの要因もここにあったような気がします。

大勢の中の孤独が、学校ではなぜだか許されません。


休み時間をひとりで過ごしていたら、友だちと遊べと言われます。

昼食をひとりで食べていたら、心配されてしまいます。


クラブに通っている人は、チャラい。

この偏見と、結局は同じなのかもしれません。


「私の友達はみんな喫煙者だ」とか「君はいつも眠たそうだね」と一般化するのに必要な目撃回数は3回だといいます。現代においては、そのようなたった三つのサンプルを元にした、「みんな」「いつも」とすべてがそうであるという認知は確かに偏見であり、思い込みにすぎません。

近内悠太(2024)「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社


あなたが偏見を寄せるそれは、どこかの誰かを救っています。

あなたが偏見を寄せるそれは、どこかの誰かの居場所です。


知らないままに否定するのは、簡単です。

無自覚なままに人を傷つけるのも、簡単です。


今夜クラブに、出かけようかな。

明日も暇じゃない、予定あるけど。






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