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画面の向こうに人がいる


2024年1月29日(月)朝の6:00になりました。

親切にしなさい。あなたが会う人はみんな、厳しい戦いをしているのだから。

どうも、高倉大希です。




昨日はじめて、フォロワーの方々とオンラインで話をしました。

数日前に投稿したこちらの note を読んで、連絡をくださった方々です。



20分のはじめまして。

どれだけ盛りあがろうが、どれだけ気まずくなろうが、20分で強制終了です。


結論、お話ができてとてもよかったなと思います。

いちど話したという事実があるだけで、心持ちはわりと大きく変わります。


さて、インターネットのディスプレイ画面を見つめている人は、根本的なところで孤独です。乱暴な言い方だということは承知していますが、こんな姿が孤独でないわけはありません。

糸井重里(2014)「インターネット的」PHP研究所


note を書くという行為は、基本的に孤独です。

インターネットの海に、メッセージボトルを投げ込むようなものです。


本当に読んでくれている人なんて、存在するのだろうか。

毎朝投稿していると、だんだんとそんな気持ちになってきます。


画面の向こうに人がいる。

昨日のコミュニケーションを通して、そんな事実を確認することができました。


対話的なコミュニケーションでは、そうした異なる意見に対して早急な判断や評価を下さずに、どのような前提から、それが話されているのか、背景を理解することが推奨されます。その過程において、自分とは異なる前提に立つ他者への理解を深めるとともに、自分自身の前提がどのようなものなのかが相対的に意識され、これがメタ認知につながるのです。

安斎勇樹、塩瀬隆之(2020)「問いのデザイン 創造的対話のファシリテーション」学芸出版社


おなじ世界を生きているはずなのに、見えている世界はまったく違う。

人と話すたびに、いつもこう思います。


違うことが、わるいわけではありません。

どちらが上とか下とか、そういう話でもありません。


同じ映画を観たとしても、出てくる感想はまったく違う。

この違いがなぜ生じたのかを、深掘ってみたくなるのです。


だれかが「これが最後ですね。はい、結論」と言ったときに、必ず別のだれかが「いやいやいや」と言う。そしてまた話が始まる。そのようにしてどこまでも続いていくのが対話の本質であって、別の言いかたをすると、ずっと発言の訂正が続いていくをそれが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。

東浩紀(2013)「訂正する力」朝日新聞出版


そしてなにより、この note を読んでくださっていることがありがたい限りです。

初対面特有の妙な探り合いをカットして、話をはじめることができます。


20分のはじめまして。

どれだけ盛りあがろうが、どれだけ気まずくなろうが、20分で強制終了です。


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