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YABO


2024年7月20日(土)朝の6:00になりました。

野暮な人は、とかく、しゃれた事をしてみたがるものである。

どうも、高倉大希です。




「冗談ですよ」

冗談をかましたあとに、ついついこう言ってしまいます。


相手がその冗談を真に受けたら、自分が困ってしまうからです。

冗談は、ここの塩梅に頭を悩ませてこそはじめて成立する表現です。


安易に「www」や「笑」を、つければよいというものではありません。

スルーされても仕方がないという、ギリギリを攻めてこそなんぼのものです。


彼らは決まってスーツにネクタイという身なりで(たいてい金曜日にも)、ジョークを投げても脳面のような表情を返してくる。椅子の座りすぎ、飛行機の乗りすぎ、新聞の読みすぎで、若いうちから早くも腰を痛めていることが多い。それから、かいぎとかいう奇妙な儀式によく参加する。それに加えて、自分に見えないものはそこにない、理解できないもよは存在していないと思いこんでいる。根本的に、「未知のもの」を「存在しないもの」と誤解しているわけだ。

ナシーム・ニコラス・タレブ(2017)「反脆弱性 上」ダイヤモンド社


わざわざ、言わなくてもいいことを言ってしまう。

このような行為のことを、わたしたちは「野暮」と呼んでいます。


辞書的に言うならば、「風雅な心に欠けていること」を意味します。

自分で「冗談ですよ」と言ってしまう行為は、風雅な心に欠けているわけです。


その冗談を言ったことでウケるか否かという、問題ではありません。

スルーされる覚悟もないままに、冗談をかましてはならないという話です。


構成はいくらでも後で修正できます。しかし文書はそれを活字にしたとたんに、まるで黄金の彫刻を彫り上げたときのように、素晴らしく美しいでき映えに見えるものです。たとえ必要であっても後でそれに修正を加えるには大変な勇気を要します。とにかく、すべての文書を「いったん書き上げてみる」というやり方は絶対にやめてください。

バーバラ・ミント(1999)「考える技術・書く技術」ダイヤモンド社


なぜスルーされる覚悟もないままに、冗談をかましてしまうのか。

それは、自分はわかっているということを相手に知らしめたいからです。


「べつに本気で言ってはいませんよ」という、保険をかけたくなってしまいます。

こうしてわたしたちは、野暮の道へと進みます。


まあ感じ方は人それぞれなので、今日の記事は個人の見解だと思ってください。

ここに書いてあることなんて、所詮はただの冗談です。






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