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先生、どうか褒めて操ろうとしないでください


2023年3月25日(土)朝の6:00になりました。

今日もどこかで、不器用にこの日々ときっと戦っていることだろう。

どうも、高倉大希です。




子どものころ、学校に行っていない時期がありました。

途中から「そろそろ行ってもいいかな」と思っていたのですが、欠席が続けば続くほど、だんだんと行きづらくなってしまいます。


「明日から行く」で済む話なのですが、どうにもこうにも言い出せません。

このひとことを発することで、褒められるのではないかと思ったからです。


親に迷惑をかけていることは、幼心にわかっていました。

先生が気にかけてくれていることも、十分にわかっています。


だからこそ、「明日から行く」と言ってしまうと、大袈裟に褒められるのではないかと思ったのです。


自分の中では、すでに整理がついています。

学校に向かう準備は、とうの昔にできています。


そんな「大したことがないアクション」が、褒められることで「大したこと」であるかのように仕立て上げられてしまうのではないかと思ったわけです。


公教育とは、すべての子どもたちが、<自由の相互承認>の感度をはぐくみ、そのことを土台に、みずから<自由>になるための力をはぐくむことを、必ず保障するためにあるということです。
苫野一徳(2013)「勉強するのは何のため?」日本評論社


そんな学校が嫌いだった少年は、学校の先生になりました。

おなじように学校に来たがらない生徒には、こんな声をかけていました。


「明日、学校に来るときは必ず左足から入りなさい」



大した怪我ではないのに、とても痛そうに振る舞う子どもがよくいます。

彼らが怪我を見せてきた際には、できるだけ小さな反応を返します。


「え、痛そう!大丈夫!?」という大きな反応を返してしまうと、それが「大したこと」だと勘違いしてします。

そして彼らはこれからも、大したことではないにも関わらず、大したことであるかのように振る舞ってしまうのです。


ぼくは、先生の役割って、一つの狭い常識のなかで生きている人に、そうじゃないよと教えてくれて、でも、その答えは自分で見つけなさいよらといってくれることだと思います。だから、先生を見て、「ぼくって、わたしって、ちっちゃいなあ」と思えるような人じゃないとダメなんじゃないかなって思います。
高橋源一郎(2022)「5と3/4時間目の授業」講談社


先生、どうか大袈裟なリアクションをとらないでください。

先生、どうかすごくもないことを「すごい!」と言わないでください。

先生、どうか褒めて操ろうとしないでください。





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