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己の承認欲求と向き合う ー7ー 一人優勝問題

1 先日行われたSJJIFの柔術世界選手権について、早川先生が次のようなツィートをされていた。

世界王者量産問題が巷のトピックに。 一人優勝問題、マスター世界一問題、世界大会じゃない世界大会問題は、いにしえの昔より存在します。 モヤる方達がおられるのも良く分かりますが、長年この世界に身を置くものとしては、すべてが柔術の文化という心持ちかな。

早川光由 Mitsuyoshi Hayakawa (@bjjyoshi) / X

 本稿では、早川先生が提起された問題の中から「一人優勝問題」について取り上げてみたい。

 随分と時間が経ってしまったが、以前ある読者の方から頂いたコメントに対する私からの返答も兼ねている。

 ブラジリアン柔術(BJJ)の公式試合では、「一人優勝」という事態がしばしば起こる。

 BJJの公式試合は、①体重別に9階級(無差別級を加えると10階級)②帯色別(白帯から黒帯まで全部で5色)に加えて、③年齢別に(アダルトからマスター7まで全部で8つのカテゴリーが存在する)行われるため、総数で400ものカテゴリーが存在する。

 ほとんどの大会は、400全てのカテゴリーに参加者がエントリーする事はないので、ひとつの大会で400人もの優勝者が生まれる事はない。

 ただ、競技者の絶対数が少ない重量級やマスター5(51歳~)より上のカテゴリーになると、ある参加希望者がエントリーしたものの、後続する参加希望者がおらず、最初にエントリーした者が「一人優勝」として扱われるのである。

 一般論として、「一人優勝」した人が悪いわけでは「全くない」。

 「一人優勝」した人は、試合をしようと参加費を払ってエントリーしたにも関わらず、運悪く後続する参加者が現れず、試合が成立しなかっただけなので、試合不成立について「一人優勝」者が責められるべきいわれは全くない。

2 早川先生が「一人優勝問題」として、これから述べるような事案を念頭に置いていたのかは定かではないが、私が問題ある「一人優勝」と考える事例を紹介しよう。

 BJJの公式試合には(別にBJJに限った話ではないが)、参加申し込みに期限が設けられている。

 ごく稀に、自分のカテゴリーにエントリーが無い事を確認した上で、参加申し込み期限の直前にエントリーし、「一人優勝」として表彰台に上がる者がいる。

 一度でもBJJの公式試合に出た事のある人ならば、そうした「一人優勝」に・・・一試合も勝っていないのだから・・・何の価値もない事は分かっているのだが、それでも彼は(SJJIFの場合)世界チャンピオンになってしまうのである。

 そして、彼が表彰式で金メダルを授与されている画像をSNSにアップロードすれば、BJJに興味のない世の中の99%の人がそれを見ると、彼について「この人は柔術の世界チャンピオンなんだ!」と誤解してしまうのである。

 事前に私が予想していた通り、そういう者が今回もいた。

 彼は、金で「世界チャンピオン」という地位を買っただけで、実力で「世界チャンピオン」になったわけでも何でもない。

 そうした己の姿をSNSにアップロードする事は、私の感覚では「恥さらし」にしか見えないのだが、どうも彼は私とは「恥」の感覚が異なっているらしい。

3 「武士道とは死ぬことと見つけたり」というフレーズで有名な「葉隠」という書物がある。

 先の大戦時に、戦地に赴く若者達の必読書だったせいもあってか、「葉隠」はとにかく「死に急ぐ」事を推奨する「死の哲学」を説いた書物であるかのように誤解している人もいる。

 だが、実際に手に取って読んで見ると、それとは全く真逆の事が書いてある。

 「葉隠」の(私が理解した)骨子は、要するに「いつ死んでも恥ずかしくないよう、一日一日を精一杯生きなさい」というメッセージに尽きる。

 裏を返して言えば、毎日を周囲から見て「恥ずかしくない」よう必死に生きていれば、いつ死んでも己に「恥じる」所はない、という「生の哲学」を説いたのが「葉隠」なのである。

 「一人優勝」した姿をSNSに嬉々としてアップいる彼の姿は、BJJ実践者にとっては滑稽であるが、彼もまたリアル(家族・地域社会・職場or学校)では承認欲求の充足が調達出来ずに、ネットという「第四空間」にしか居場所がない現代人の典型例のように見える。

 「恥」の感覚は、リアルで顔の見える範囲の人々を相手に、「自分がどう見えるか?」と問う事によって始めて引き起こされる。 
 もし、リアル世界で彼の動向を気にする人が誰もいなければ、「周りから自分がどう見えるか?」を問う必要もない。

 「第四空間」としてのネットに生き、フォロワー数というデジタル「数」にしか興味のない人にとっては、(リアルな周りの目を気にする必要がないので)「恥」の意識が生まれようがなく、さらに、彼ないし彼女に信仰心がなければ、(宗教的戒律に違反した際に惹起される)「罪」の意識を感じる事もない。

 「恥」の意識も「罪」の意識もない人というのは、結局のところ「道徳心」のない人を意味している。
 「道徳心」のない人は、いかなる道徳的な批判も通用しないという意味で、倫理的には「無敵の人」である。

 「一人優勝問題」を解決するためには、試合不成立の場合、「一人優勝」として表彰するのではなく、参加費を返金するのが最もシンプルで効果的な対応だと思うのだが、なぜか?BJJの公式試合ではそのような取り扱いはなされていない。
 
 こうした問題が生じる原因は、「無敵の人」の道徳心の欠如とBJJの大会における制度設計の不備のどちらに帰せられるべきなのだろうか?

 

 

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