自分の人生を動かした最初の選択

自分に「あの選択をしたから」と言われたら、間違いなく外せないものがあります。

親に無断で都心にアパートを借り、就活に出たことです。
その時点で自分は、親との約束でその支援の下公務員試験を受験するという話になっていました。

この背景があっての選択というのが自分にとって間違いなく一番大きかったものです。実際、人から見てもだいぶ大きい決断でしょう。これは大学卒業後の就職浪人2年目のことでした。

自分の両親は常に息子である自分の将来を大事に考えてきました。住んでいる場所が所謂「お受験」のできる地域ではなかったので幼稚園から中学入学までは受験とは縁のない生活をしていましたが、そういう「お受験」の児童が読むような分厚い参考書を買ってくる等、必死に「将来のため」という行動を繰り返していました。

それが自分には非常に鼻についていました。両親が執拗に「将来のため」と色々買い与えてきたところで、自分にはその「将来」が「何をしたいか」というような希望が無かったからです。テレビや漫画に影響されてちょっと憧れるようなことはあっても、三日も持てばいいような子供の夢でした。それは「どれかを選択すれば残りは全部手に入らない」というのも子供心に漠然と感じていた部分があったからという記憶もあります。

また、そもそも「大人になる」ことへの不安感・不満感も間違いなくありました。その時は勿論学校こそありましたが、それさえ終われば遊んでいられたというのが気持ちにありました。当時の自分は大人になると、結婚して子供を育てるために夜遅くまで仕事をしなければいけないという認識でいました。この認識は世間一般のものでしょうけど、自分は「必死で仕事して稼いだ金を自分ではなく奥さん子供のために使うのか」と明確な不満感を抱いていました。

将来に明確な不満感があるにもかかわらず、両親はその「将来」を絶対的なものとして押し込んできました。進級等ことあるごとに「ゲームや漫画は卒業」と言ってきて、なおのこと「大人になることはこうして奪われること」という意識を強めていきました。そして中学に入ると定期試験が行われるようになり、特に母はその都度難詰するようになっていきました。母の口からは「仮に満点を取ってもその上がある」と出た時にはおぞましさを感じました。

当時は「毒親」「教育虐待」などという単語は存在しなかったので、これらの両親の行為を自分にとって害のあるものであると認識することができませんでした。

自分は両親からの押し付けに、応えたり応えなかったり中途半端でした。自分でも何をしたいか、何をすべきかというのが全く見えていませんでした。ただ、定期試験のたびに繰り返される母からの難詰に辟易していたのだけは間違いありません。

最終的に自分は地元でも上位の高校に合格しました。高校の名前を言うだけで地元の人たちは見る目を変えるだけの高校です。合格した時、自分の気持ちで一番にあったものは「ここに合格したんだからもうこれで追及されたりする日々も終わりだ」というものでした。それは入学して即座に高校から大学受験の話を詰め込まれたことで、一気に打ち砕かれました。

これに関しては両親ではなく高校の方の問題だったのかもしれませんが、自分は一転して叩き込まれたこの状況に絶望しました。勉強は全く手を付ける意欲が無くなり、将来に進むこと自体に恐怖すら感じるようになりました。結果、自分の高校生活は追試と居残りのオンパレードとなり、ガタ落ちとなった成績を見た両親からは何度となく殴られる日々となりました。毒親による教育虐待はここにきて完全に馬脚を現したわけです。自分の内心を訊かれることはありませんでしたし、仮にあったとしても当時の自分の整理や説明の下手さ加減から恐らく説明できなかったと思います。

貧すれば鈍するもので、元々奇行癖のあった自分でしたが、このような高校生活の中でのやるせなさからそれまで以上に奇行に走るようになりました。同級生からは制裁の名目でのいじめも受けましたし、その奇行も両親の耳に入りますます怒られる状況となってしまいました。こうしてどうしようもないまま自分の高校生活は過ぎていったのです。

大学受験が近付くにつれて進む大学を決めることも要求されるようになっていきましたが、大学学部学科とも、上記の状況の自分には頭に入れることもできませんでした。ましてや「行きたい」などと思えるようなところを選ぶなんて不可能でした。とは言え卒業してそのまま働くという覚悟も抱けるわけもなく。自分の答えは「勉強は嫌だけど働くのはもっと嫌だ。せめて将来決定を先送りできるように学部学科を選ぼう」という惨憺たる理由で受験する大学を選ぶ結果となりました。

そんな動機での進学だったため、大学の成績がどんなものであったかは語るまでもないでしょう。両親からは「受験するのはお前だけでなく弟もいる」という話の下、その都度「最低でも国公立」「浪人するな」「私立に行くなら授業料免除となる特待生になれ」と言われてきました。しかし自分にそれらを実行できる気力は無く、言われてきたことは全て破り大学を留年しました。

こうして高校入学から大学卒業した後も含め、10年近く親の怒りに怯えながら目を盗んで現実逃避の享楽に終始する日々を続けることとなりました。大学3年以降は就活も手を出すには出しましたが、徹底的に後ろ向きな人間性となっていた自分をしかも不況時に採用する企業などあるわけもなく金さえ出せば何処かは拾ってくれる大学受験とは全くわけが違う就活を乗り越えることはできませんでした。大学卒業まで内定を得られることは無く、就職浪人へと進みました。

この時点で自分の人生は瓦解しきっていたのです。この状況を脱却する「あの選択」が自分の人生の始まりだったと今でも思っています。

就職浪人が始まってすぐ、大学時代から通い続けていた就職窓口から紹介された職場体験が契機でした。実際に職場というものを体験してみて、まず幼少期からの仕事というものへの抵抗感がなくなりました。その上で「生きて楽しんでいく上では対価は必要だが、その対価は自分が払いやすい形で払えばいい」と自分に合った仕事を探すことに意欲を抱けるようになりました。

が、ここで両親から最悪の邪魔が入りました。自分に合った仕事を探すという選択が悠長とでも映ったのでしょうか、連日「公務員試験」を「一生の安定職」と連呼し追い詰めてくるようになりました。合った仕事が即座に見つかるわけでもないため立場が弱かった自分は発狂し、追い詰められるあまり「公務員試験を受験する」という親からの要求を受けてしまったのです。

これは発狂故の選択だったので、それこそ自暴自棄になり通り魔事件でも起こすような結果にならなかったのが幸いというレベルでした。ただ、そんな流れの選択だったので受験への意欲は無く、同時に「公務員の職場を見る」と称して入った県の臨時職の方こそ意欲的に働けましたが、一方の公務員受験の講座は意欲皆無となっていました。

そんな中、両親にかけられた言葉が完全にとどめとなりました。お前は何か特別な才能があるわけでもない、勉強して公務員になって、社会にぶら下がっていくしかないんだ。この一言で完全に、公務員試験を断念するとともに両親への信頼が消滅しました。

まず一緒に働いて隣で見ていた公務員の人たちを馬鹿にしていると感じました。所謂「お役所仕事」なんてものでなく真面目に働いている人たちを「社会にぶら下がっている」みたいな言い種であったことに対する怒り。そして仮に罷り間違って公務員になったとして、つまり自分も両親から「社会にぶら下がっている」存在とみなされることへの絶望。そして何より、それから先公務員試験を要求してきた時のように結婚だのを要求してきかねないという危惧を抱きました。どこからともなく見合い話を持ってきて、少しでも難色を示せば「こんないい話を」と畳みかける。そうやって着実に「自分」を放棄させられる。そんな「将来」が一気に見えた瞬間でした。

両親には「公務員試験の特別講座」と嘘を吐き、一週間ほど東京へと出ました。そこで就活も始めつつ不動産屋を当たり、保証人不要のアパートを借りました。公務員の臨時職で資金があったのが幸いでした。

流石に親に無断でアパートを借りることまでしたら、今度こそ勘当されかねないとは思いました。親から勘当されて就職先も見つからなければ、いよいよ餓死するよりほか無くなるとも思いました。その上で「仮に公務員試験を受かっても、親に畳みかけられ続け自分を放棄させられ続ける可能性大。ならば苦しむ時間が少ないだけ自分で自分の人生に蹴りをつけた方がマシ」という結論に至りました。

結果として辛うじて一社から内定を貰え、両親に対しては伯母が仲介してくれたことで納得してもらうことができました。その後も十年以上紆余曲折あり、最終的に両親を毒親と認識して距離を取っている間に母の方は亡くなりましたが。まさに「あの選択をしたから、自分は今生きている」と感じています。

#あの選択をしたから

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