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HSP、エンパス体質 三姉妹の長女 広島生まれ広島育ち   17歳→アメリカへ交換留学…

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HSP、エンパス体質 三姉妹の長女 広島生まれ広島育ち   17歳→アメリカへ交換留学   26歳→オーストラリアにワーホリ   27歳→カフェ、花屋、生地販売 掛け持ちアルバイト  28歳→短大卒業後初めて保育士として働く  現在東京都在住 だれかの心にに届きますように

最近の記事

経験しすぎた歯医者時代

小児歯科に内定が決まり最初の数週間は母親に言われるがままに スーツ出勤をしていた。 その小児歯科は建物の2階。スタッフは少し年上の同年代が多く、主任は40代くらいのベテラン。あとから同い年の歯科衛生士も入ってきた。 みんなでテーブルを囲んでランチを取るなれない光景にあたふたしつつ、 今働いている2人の受付が同時退職をするので引継ぎを一人で頑張っていた。 電話対応の最初と最後は大丈夫。 問題は診察内容とどのくらいの時間がかかって 隣のレーンとの兼ね合いをどうするかを考え、

    • ニートライフ

      宮島の旅館を退職してからは実家に帰り、 ぼーっとする毎日。母は最初の1週間は黙っていたけど 日に日に私が引きこもりやニートになり続けるのを心配したのか あたりが強くなる一方で父親は何も言ってこなかった。 唯一言われたのは国民保険、国民年金。 退職したあとにする手続きを一切知らなかった私は 受給できるお金の制度さえも知らず、すぐに動こうとしなかったので おこられた。 社会人になったのに何も知らない 親の助けがまだいる。 それが仕事をやめた私が感じたことだった。 退職理由

      • じいちゃんの家に行った日

        宮島で仕事をしているときに、やってみたかったことをした。 じいちゃんの家に連絡なしに行くこと。 宮島駅から近くが最寄り駅。 そこから車で20分のところにじいちゃんの家がある。 私が24歳くらいまで携帯は圏外になっていたようなその集落のような場所。川があり、山があり朝と夕方の5時にはサイレンが鳴り響く田舎だった。 いつもは両親の車に乗っていく場所。 電車でも行ったことがあるけど、駅に必ずじいちゃんが迎えに来てくれていた。 なじみのある場所に、一人で電車に乗って、 駅からタ

        • 家を出て行くように決めた職場

          高校でアメリカ交換留学をし、短大に行きなさいと言われた時点で、 社会人1年目、県外で一人暮らしをする!と思えるほどの思い切りも 広島で一人暮らしをする資金も自分で持っていなかった私に残された選択肢 は寮のある職種に就くことが自分の願いをかなえる方法だと思っていた。 (今となっては借上げ制度というものが保育士にあるけど当時はなかった気がする。) 英語を使うということにこだわりを持ち続けていた結果、 選んだのはというか決まったのは宮島にある旅館の仲居さんの仕事。 ここを受ける

        経験しすぎた歯医者時代

          決めた進路

          成人式の振袖も決まり、卒業式は袴での参加をした。 二次会はドレス?(よくあるひざ丈くらいのもの) を着た。 担任にも何度か相談した。 一番行ってほしい「あなたは向いているよ、大丈夫」という 言葉はもらえなかった。 やっぱり私は向いていないんだな と思った。 子どもが好きなだけでは、ピアノができるだけでは先生になれないと 痛いほど痛感したつもりだった。 実際は自分でできない理由を決めて やりたくない人間関係に苦しむ自分を想像して やめたのもある。 インターナショナル

          決めた進路

          何ひとつつかめない実習

          実習は入学してすぐ始まった。 子どもの観察のしかた。動き方、質問をすること。 2年生になれば実際に時間をもらって先生となり、 何かをしなければいけない。 アルバイトはしていたものの、保育園という 独特な雰囲気になじめず、主任の先生には あまり好かれなかった。 実習日誌もどう書いていいかわからず ほぼ白紙で出したこともある。 大きな園で実習をしたときは同じ学校の子も集められ コピーをした実習日誌をみんなでシェアされたこともある。 ”ほかの実習生はここまでできているんだぞ

          何ひとつつかめない実習

          入学式前の集まり

          高校の卒業式が終わり、短大の入学式が始まる少し前 幼馴染に誘われて入学式前に保育科で集まりにいった。 当時のブログで同じ科に進む子たちが声を掛け合い 決まったらしいこの集まりは高校の入学式のトラウマを 抱えた私には「ここに行かなきゃまた一人かも」という不安がよぎり 参加することにした(Mよありがとう。) 迎えた当日、人見知りを発揮しながらも新しい出会いに 少しの期待を持ちながら会場に向かった。 ランチをみんなで楽しみ、 トイレに向かった時に出会ったのがY。 わたしより背が

          入学式前の集まり

          決着をつけたいこと

          私の人生の課題は 「人と比べること」 小さいころは幼馴染と比べ、 それ以降は現在進行形で妹と比べている。 比較の対象との戦いには、いつも 私が 負けていて 劣っていて 悲しい結末を迎える。 もうさんざん比較して生きづらさを感じてきた。 自分が悲鳴をあげている 「そろそろ解放してくれ」と、 「この苦しい状況がなくなったら、心のスペースができたら、私は もっと軽やかになることができる」 「比較しないですむ自分の人生を歩みたい」 「私だけが比べていて、自分で首を絞め

          決着をつけたいこと

          卒業式までの高校生活

          高校3年生に何とか進級できた私を待っていたのは 受験生の夏。成績も普通より少し下。 親から「大学2年分のお金を留学で払ったと思いなさい、 専門学校は絶対だめ。」と言われていた 母からは「国家資格を必ずとりなさい」まで言われてしまったので 自分ができることと国家資格で短大でと考えて候補としてあがったのが 「旅行関係」「保育士・幼稚園教諭」だった。 「旅行関係」は両親から却下された。 Rも帰国し、受験生として進めていかなければいけなくなったころ、 親友だった子とも距離感を取り戻

          卒業式までの高校生活

          帰国後フォロー

          久しぶりの日本、広島。 家には大親友がいる状態。 当時の家は子供部屋はみんな一緒で、 プライベートなんて皆無。 家族の中で英語を話せるのは私と次女なんだけど 野球部のマネージャーをしていた妹はほぼ家にいる時間が なく、私も帰国したばかりでこれからまた高校生活が始まるという ことに自分が思っている以上にストレスを抱えていたみたい。 Rに対して冷たいときも多かった。 本当に申し訳なかったと思う。 母が渡米前に言っていた。 「留学前にオリエンテーションがあるのはわかるけど帰っ

          帰国後フォロー

          帰国の日

          10ヶ月という留学生活は私の常識を簡単に覆し、 初めて経験することや感覚、趣味などを経験することができた。 1番私が学んだことは「ひとの話を聞くこと。」 これはホストブラザー(次男)から学んだこと。 今までは他人に興味がなくて、そのくせ一人にしてほしくなくて 妹からは「人間がきらいっていう空気だしてた」と言われるほどだった 私だからこそ「人の話を興味を持って聞く」ということはとても 大きくて、大切なまなびだった。 今でも人の話を聞くときは1本の映画を見るような感覚で 聞い

          帰国の日

          帰国前の思い出

          帰国前にホストファミリーと自由の女神をみた。 天気が悪かったけど、週末は家で過ごすことが多かった私は 一緒に観光ができてうれしかった。 もう一つ観光地ではないけど、印象に残っている場所がある。 ホストファザー側の家族が住んでいるところにいったときに 大きな川がある公園?緑地?のようなところに連れて行ってもらった。 田舎ではなくて町中にあったその場所へホストシスターと いとこ(小学生くらい)たちと一緒に散策をした。 水の上を木でつくられた道を歩いたり、静かで夕方前の明るさが

          帰国前の思い出

          ふつうじゃないプロム

          学年末前にプロムがあった。 日本で同じ学校だった子は友だちも彼氏も作って リムジンを借りて完璧に楽しんでいた。 一方私はリムジンを一緒に借りる友だちもおらず、 もちろんお相手もいないのでどうしようかとおもっていたけど SやSの友だちと一緒に行くことにした。 (本当にいまでもほかの子がうらやましくなる。 英語力があってきれいで可愛かったらとなんども思う。) (どうして息するように友だちができて、恋人もできるんだろう。 それすらできない自分は人生負け組だとこのころからおもっ

          ふつうじゃないプロム

          SAYONARA

          Rが発つ1週間前に数人でニューヨークに遊びにいった。 服や、コスメなど女子だな~ということを一通り楽しんだ。 服を試着してみんなに見てもらおうと試着室をでたら Rの試着室に集結。 試着室をでてしまったために、監視する人とも目が合い、察したのか、 着たままでていいよとジェスチャーをもらったので 本当は引っ込みたいほど恥ずかしかったけど わざわざどうかなって聞きにいった。(なんか切なくなった。) こうして、次男もランチ仲間のRも日本に旅立ち、この二人が いない高校生活はやはりち

          SAYONARA

          私は誰かの代弁者

          ホームステイ先の近所に、同じ高校に通うAというエジプト人の女の子がいる。 一つ下の弟もいて1度だけ学校からの帰り道で会い、イヤホンをしていた私が気づかないのでそこらへんに落ちていた大きな枝をぶつけて気づかせようとしてきたのもいい思い出。 私がホームステイ先での出来事をメールや電話で伝えているうちに 留学、ホストファミリーになることもすべて断固拒否だった 父親がなんと短期間だったらいいと許可を出してきた。 あの面接は何だったんだというような変わりように驚きながらも それで

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          初めての差別

          私が利用した留学団体主催のお泊り会があった。 同じ団体の子がニューヨーク州の雪がたくさんふり積もっている 場所に行き、現地の高校と生徒の家にホームステイをさせてもらうという プログラムに参加した。 ほかにもいろんな旅行企画があったけど、ことごとく逃した 私は最後のチャンスであるこの外泊をとても楽しみにしていた。 現地の高校生と一緒にバスにのり、アクティビティをたのしんだり 留学生同士で話したりバスケットをしたりと順調にたのしかった。 ステイ先はドイツ人留学生の女の子と一緒

          初めての差別