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家を出て行くように決めた職場

高校でアメリカ交換留学をし、短大に行きなさいと言われた時点で、
社会人1年目、県外で一人暮らしをする!と思えるほどの思い切りも
広島で一人暮らしをする資金も自分で持っていなかった私に残された選択肢
は寮のある職種に就くことが自分の願いをかなえる方法だと思っていた。
(今となっては借上げ制度というものが保育士にあるけど当時はなかった気がする。)

英語を使うということにこだわりを持ち続けていた結果、
選んだのはというか決まったのは宮島にある旅館の仲居さんの仕事。

ここを受ける前に広島空港のスタッフにも応募したけど
あまりにも対策ができておらず、緊張もして何もうまくいかず
不採用だった。


自分の進路について考えて入った保育科だったけど、
現実は甘くなく、自分の技量やセンスのなさにことごとく心は
砕け、保育の世界から逃げるように決めた職種。

国家資格のある職種にと縛りをつけてきた母に
「国家資格を取っても私はそれを仕事として自分の人生で
は使わない!残念だったね」と皮肉の気持ちも持ちながら、

帰国後あれだけ毒を吐いておいて、
何事もなかったかのように食事や外出に誘ってくる叔母も
父方の祖父母の集まりにも、旅館で働くということは私にとっては
そんな人たちに会わなくてもいい、正当な理由となるのがうれしかった。


卒業式も終わり、いよいよ引っ越しの日。
宇品港から高速フェリーに乗って宮島へ向かうことにした
私は母親に送ってもらった。

後日妹からきいた話で私を見送ったあと家に戻った母は
なぜか妹の靴をベランダから投げ落としたという、


寮についた第一印象は”ゴミ屋敷”
玄関すぐ右にはブラウン管テレビがいくつも積み重ねられ、
台所やトイレもなかなかの汚れよう・・・
これが社会人の女子寮・・・と思った。


同期は親が中国人で広島育ちのT。
同僚に中国人もおり、のちにこの人の帰国の手伝いをしたのも思い出。


宮島の中に住む不思議で貴重な体験。
仕事ではたくさん失敗をした。夕飯のサラダをひっくり返したり、
フランス人の食卓にコーラをもっていってこぼしてしまい、
次の日大クレームを受けたり、お品書きもろくにできず、
仕事にたいしての自信がやっぱりなくなった。

「だめだったのは保育だけじゃなかったんだな」と
仕事ができない、要領の悪い自分に嫌気がさし、つかれ
いつの間にか空を見上げることも忘れてしまうように。
体重も落ち、上を向けば視界がぐらつく。


そんな中で出会ったのはリゾートバイトで来た
C、Yだった。二人とも年上。
Cとは先に出会って姉のように慕っていた。
「上手にさぼってんねんみんな。」って言われたことをよく覚えている。
喫煙者だったけど、しゅっとした端正な顔立ちのCの煙草を吸う姿がかっこいいとも思っていた。

シフトが違えばオムライスをつくってくれ、
本島にいって一緒に買い物をし、私に一人暮らしについて教えてくれたのはCだった。

同期のTばかりが同僚のなかでも、お客さまからもほめられ、
失敗ばかりの私のはそこに落ち込み、嫉妬し、Tの悪口も言ってしまったこともある、Cの存在は本当にありがたくて、甘えさせてもらえて
楽しかった。

ゴミ屋敷だった量をCと一緒にきれいにした。
最初は二人だけだったけど、途中から副支配人や男性社員も手伝ってくれるようになった。
蒸発した社員さんの部屋は本当に最悪だった。
なんで私がこんなことしてるんだろうと思いながらも片付けたら
いつしか大家さんが来て「きれいにしてくれてありがとう」と心からの感謝をされた。そこは素直にいいことをしたんだと思えた。

報酬は売店のシューアイス。
私はうれしかったけど、Cは「こんなものか」と言っていた。


YとCと私で休みを合わせてレンタカーをし、島根県まで行ったことがある。
石見銀山や出雲大社に行った。

滞在先のホテルで3人で話していた時、ふと自分の祖母の話になった。
この話がCにとって嫌だったようで「そういう話ばっかりやめてくれん?!」と急に怒られてしまった。Nにどこかおかしかったかを聞いても
どこもおかしくはなかったという。自慢話をしているように聞こえたのだろうか。と反省した。今まで距離が近すぎたから、自慢話を私が気づいていないところでしてしまいCを不快にさせてしまったのかもしれない。

だから私は人間関係がうまくいかないんだ、と負のループに落ちてしまった。その日を境に距離をおかれ、関わってもらえなくなり、私は孤立する。
理由もわからないまま、でも全部私が原因だと思い詰めながら
CとNが去る日が来た。最後に話をすることができた。

「もう、こんなことしたらあかんで」と最後にやさしく言われた。
こんなことってどんなことだろう、でも嫌な気持ちにさせてしまったことが
申し訳なさ過ぎて、泣いて見送った。

これって依存だったんだと、自分が依存してしまうことにまた嫌気がさす。
心開いたひとにつきはなされる悲しさをしった期間だった。

この後入ってきたリゾートバイトの女の子2人は特にべたべたするわけではないけど、盛り上げ役の一人と東北美人の静かに面白い人だった。
盛り上げ役の人が「ここを去る時、私がいてよかったな~と思ってもらえるような人になりたい!」と言っていた。当時はよくわからなかった。

この人たちと先輩と同期でレンタカーをして山口県の方にも行ったことがある。運転はわたしがした。よく何事もなく帰ってこれたと思う。

そのあとも宮島の旅館から転職してきた人や、高卒の子など
いろんな若者に出会った。


女将経験のある人とも一緒に働けた
「ご主人様っていったらあかんで、旦那さまっていうんやで」って
教えてもらったおかげでこの後どこに行っても自信をもって話せている。


仲居は中抜けがある。朝ごはんの担当をし、昼抜けて部屋の清掃と夜ご飯の配膳に行く。
自分の寮に戻ってアニメをみたり、買い出しをしたり。
9時に終わった後、島内の居酒屋にも行った。

宮島の花火大会は特等席(旅館の中)で見ることができたときは
嬉しかった。年越しも初めて厳島神社の初もうでに行けて
賄いもみんなでおせちを食べた。

失敗ばかりでおこられることもたくさんあったけど料理長にも2番手のひとにもかわいがってもらった。
「チビ助」と呼ばれて味見をさせてもらったり、朝食を片付けたに調理場に行くと、おにぎりを作ってくれていたり。(鹿児島か長崎の人たちで方言をきくのも心地良かった。)


1月末で会社が撤退することになった。
石垣島、西表島に行くのだそう。
そこにはついていけないとやめることにした。
みんなよりもはやく出勤日を終えた私は父と母に
引っ越しを手伝ってもらい、そのまま宮島を後にした。

みんなにも挨拶をした。最後の日を迎える数日前、
2番手さんが「料理長が次の進路を決めてくれる(ほかの旅館に紹介する)がどうするか」ときいてくれた。もう仲居をする気持ちはなかったので断ろうとおもうと伝えると、話し方を教えてくれた。

料理長から「ここの後はどうするつもりなんだ」ときかれた
「実家に戻り、保育士をしようと思います。」というと
「そうか、」とやわらかい表情をしてくれたのを覚えている。

料理長はここを最後にもう仕事を離れるのだそう。
九州のほうに帰るとたしか聞いた。

あまりのハードスケジュールに母も「名残惜しいとかないん?」と
驚かれたが、名残惜しいも何も宮島なのでまたいつでも来れる。

旅館が最後の日、あまった食材でみんなでお別れ会をすることになった。
「おいでよ!」と同期に誘われたが、断った。
離れると決めた自分の潔さは本当に気持ちいくらいだ。



3月までのニート生活が始まる。




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