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文章を書くということに、特別な思いがある

今日はなんと、記事連投です(*´σー`)エヘヘ
最近の私には珍しいです、最近は精神的(肉体的にもか)余裕がなかったので。
心配事があると、やはり心が常にそわそわしている感じで、落ち着きがないです。
最近は、毒親気質の母とも、なんとか上手くやってます。
もちろん、時々は派手に(喧嘩を)やらかすんですけど、延命治療中の父を支えたり、父のいない寂しさを分かち合うのは、なんだかんだいって、母しかいないからです。

私はこうして、記事を書くことで、思いを文章にすることで、日々の自分の不安定さを支えている。
文章を書くという手段がなかったら、私は何をして、自分の思いを昇華させていたのだろう?
やはり、音楽だろうか?

音楽は好きだが、歌ったり演奏をしたりというのが得意でない私には、文章を書くことが一番しっくりと来る。
私はだいぶ以前の記事で書いたような記憶があるが、自分自身のことを発達障害だと思っている。
それは、幼い頃から、様々な面で特徴として表れていたように感じるからだ。

好きなことにしか集中できないとか、手先が異様に不器用であるとか、大人になってからは、何よりも話が長い。(苦笑)
いくら仲が良くても、一部の友達からは、話が長いことを結構、露骨に指摘されたこともある。
断っておきますが、私は人の話もちゃんと聞きますよ。(笑)
私の場合は、自分の話をするのも好きだけど、人の話を聞くのも好きなのです。

でも、私の知る多くの人は、自分の話をそんなに長くはしないし、人の話を聞くのもそんなに長くは聞けないという感じだった。
結局、リアルで誰かと話すよりも、文章で言い切っちゃった方が、誰にとやかく言われることもなく、思いを発しやすいという利点があるのだ。

だから、私にとっては、文章を書くということに、特別な思いがあるのである。

文章を書いていると、自分を自分でそっと抱きしめているような感覚を受ける。
安全な場所で、まるで自分という母に見守られているかのような感覚で、文章を書くという世界に没頭できるのだ。
私にとって、文章を書くということは、自分の心の奥底にある、形として確認ができていない感情を、あぶり出していく行為とも言える。

暗室で、写真の現像作業をしている行為に近いだろうか?
そういえば、私は学生時代、写真を撮ることが大好きで、写真のゼミに入っていた。
暗室の作業が特に好きで、撮った写真が、絵として浮かび上がってくる時の快感が忘れられない。
今は写真もデジタルの時代になってしまったので、そんなアナログなことをする機会はあまりないのだろうが。

懐かしい記憶だ。

少し前に、「私の中で、音楽と文章を書くことは同義に近い」という記事を書いた。

今は、もう一つ、同義に近いものを加えたくなった。
そう、写真を現像することも加えたくなった。
きっと、私の中では、イメージがあぶり出されてくるような瞬間が好きなのだろう。
その瞬間に、私は、私の思いを、一番気持ちいい形で、昇華することができるのだろう。

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