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どうせ死ぬんだから・・・

今回は、精神科医である和田秀樹先生の著書
「どうせ死ぬんだから好きなことだけやって寿命を使いきる」
という本の内容を紹介します。

ある程度の年齢になると、生活や生き方が内向きに
なりがちですが、残り少ない人生になったのだから、
やりたいことはなるべく我慢しないで、人生を楽しんで
いただきたいというのが著者の願いです。

誰もが当然のこととして理解しているのが、
「自分もいつかは死んでしまう」ということですが、
これを踏まえた上で、これからの人生を見直してみましょう。



死を覚悟したからこそ辿り着ける
後悔しない生き方

普段は、自分もいつかは死んでしまうということを、
全く意識していない人が多いのではないでしょうか。

ですが、死を意識することによって、今の人生が輝き始め、
「自分がこれからどうやっていきたいのか」
「どうやって生きていけばいいのか」
というのが、
本当の意味でよく分かるようになるのです。

更には、将来の不安に頭を悩ませている人も多いでしょう。

「老後資金が足りない」とか、「世界情勢が不安定」とか、
「この先自分の仕事はあるのだろうか」など、
様々な将来の不安が頭の中を支配しています。

著者は高齢者専門の精神科医として35年もの間、たくさんの
高齢者を見てきた中でひとつの結論に辿り着きました。
それは、「誰でもいつかは死が訪れるので、今を充実させた
方が先の心配をするよりも現実的である」
ということです。

私たちは、はっきり言って喜びや楽しみを先延ばしに
し過ぎています。
年を取るにつれて、自然とあらゆる欲望が低下して
しまいますから、そんな時には魔法の言葉を
思い出してください。

それは・・・・


「どうせ死ぬんだから・・・」


という言葉です。



「どうせ死ぬんだから」と思えば、やりたいことは今のうちに
やっておかなければならないと思うことができるでしょう。
死というのは、必ず誰にでも平等にやってきますから、
それは仕方ないことだと覚悟して、今という時を大切にして
生きるべきなのです。

死を見つめることによって、本当にやりたいことが明確に
見えてくるから、死を意識しろと言っているのです。
人間の命には限りがあるので、残りの人生は自分の
好きなように生きてください。

忙しい日々に流されていたら、自分にとって何が大切なのか
分かりませんが、死を意識すると自分にとってはどうでも
いいことが明らかになってきます。
そんな、どうでもいいことに悩んで自分の時間を使っている
場合ではないと分かれば、時間の無駄を減らせるでしょう。

人間は、いつどのタイミングで死ぬか分かりませんが、
年を取れば取るほど死亡確率は高くなっていきますから、
ある程度の年齢になったら自分の死を覚悟せざるを
得ないでしょう。
死を身近に感じるというのは、確かに辛いことかも
しれませんが、必ず訪れることですから覚悟は
決めなければいけません。
そして、いつ死ぬのか分からないと思っていれば、
今生きている時間を楽しまなければ損だということが
分かるのです。

例えば、友達に「旨いものでも食いに行こう」
誘われた時に、今日そこに行かないと一生その友達には
出会えないかもしれないと思えば、せっかくだから
この機会に行こうと考えることができます。


もし、老後もケチケチと節約をしていて、貯金が思いのほか貯まって
いたら、元気なうちに夫婦で世界旅行にでも行こうかと思うでしょう。
そして、どうせ死ぬんだからと思うことができれば、人間はかなり
思い切ったことができます。

逆に、死にたくないと思えば思うほどに、人生の充実度や幸福度が
下がってしまうと著者は述べています。
特に、老後を本気で楽しむためのコツは、人間はいつか死ぬと
いうのを受け入れるということです。

このように言うと、「確かに死を受け入れたら人生が
充実するのは分かったけれど、それでもやっぱり
死ぬのは怖い」
と思う人もいるでしょう。

なぜ多くの人が死を怖がってしまうのか・・・・?

その理由の一つとして、「死ぬ瞬間が苦しいのではないか?」
という恐怖心があるのかもしれません。
しかし実際は、最後の段階になれば意識が低下して、
眠りに落ちるように死んでいくのです。
死ぬときは痛くないと判れば、恐怖心も薄れるのでは
ないでしょうか。



私たちが最期を迎える場所は、大きく分けて病院、介護施設、自宅の
3つがあります。

病院なら医師や看護師が常駐しているというメリットがありますが、
延命のために無駄な治療を施されてしまうという
デメリットもあります。
介護施設の場合は、顔なじみのスタッフに介護してもらえるという
安心感がある一方で、医師や看護師は常駐していない施設が
殆どですから、夜間や緊急時に迅速な医療対応ができません。
自宅は、住み慣れた環境で自由に過ごし、最期を迎える瞬間は
家族に看取ってもらえるというのがメリットでしょう。

さて、皆さんは、病院、介護施設、自宅の中から、
どこで最期を迎えたいですか?

・・・・・・・・

・・・・

調査によれば、多くの人が自宅で最期を迎えたいと思って
いることが判明していますが、「例え自分が認知症や寝たきりに
なってしまっても、介護するのが生きがいの家族がいる」
という人以外は、介護施設で最期を迎えることをお勧めします。

自分の親だから、子どもが面倒を見るのは当たり前だと思って
いるかもしれませんが、感情的な理由で介護をしても
絶対に長くは続きません。
まだ症状が軽いうちは大丈夫でも、意思の疎通が難しくなって
くるなどして重症化してくると、愛情や感謝だけでは
対応できなくなってしまいます。

人手が多ければ多いほど、介護する側は一人一人が少ない負担で
満足度の高い介護をしてあげることができますが、
兄弟姉妹が少なければ介護にまつわる肉体的、精神的、金銭的な
負担が重くのしかかってくるのです。
なかには、たった一人の子供が親の世話をしているという
ケースも多いようですが、専門家である著者の立場からすれば、
介護というのは一人で抱えきれるほど生易しいものではないと
言い切っています。

介護離職や介護鬱、虐待、最悪の場合は殺人という悲劇を
生み出す原因になっていることからも、介護の大変さは
想像がつくでしょう。
家族がひたすら身を削り、仕事を投げ打ってでも在宅介護に
こだわり続けるのが大事なのでしょうか?

元気なうちに、自分自身の老い方や死について考えるとともに、
家族で十分に話し合っておく必要があるでしょう。






後悔ゼロの生き方

著者はこれまで30年余りにわたって、6,000人以上の高齢者を
見てきましたが、その中には、元大臣や、大企業の元社長、
有名大学の教授などの社会的地位が高い人や、
お金持ちなどもいました。

そういう人たちは、入院をするとお見舞いに来る人が
殆どいないという特徴があり、友人や後輩はもちろん、
家族すらも訪れません。

お金を持っているから個室には入っておりますが、個室と
言ってもそんなに広くはなく、病院ですから殺風景そのもので、
そんな部屋で一人ポツンと寝ているのです。

若い頃、上の人に媚びることで出世し、下の人間を蹴落として
きた人は、高齢になってお見舞いに来る人が誰もいない
境遇に陥りがちです。
自分を引き上げてくれた人たちは、みんな先に死んでしまって、
下の人間には愛されていないのですから、誰も見舞いに
来ないのです。
それでも、過去の栄光が忘れられず、現役時代の地位に
こだわり、周りに威張り散らしてしまう高齢者は
一定数存在します。

逆に、家族や会社時代の同僚や部下、昔の友達などの
見舞い客がひっきりなしに訪れ、いつも笑い声が響いている
病室もあります。
出世はできなかったかもしれないけれど、分け隔てなく
気さくに人間関係を築いてきた人は、老いぼれたとしても
慕われます。

さて皆さんは、最後にどちらの人の死に方を
望みますか・・・・?
死ぬときには、これまで自分のやってきた事が、
すべて自分に帰ってきますから、周りの人を大切にして
きたのか?、周りの人に愛されていたのか?、
それがすべて分かるのです。



また、死ぬ瞬間だけでなく、年老いてから惨めな思いをするか
どうかも、現役時代にあなたがどう生きたかによって決まります。
現役時代にどれだけ成功しても、どれだけ大勢の人に
もてはやされても、傲慢で威張り散らして嫌われて
いるような人は、年を取ったら急に友達がいなくなったり、
見舞いにも来てくれないのです。

かつては社会的地位や力関係で仲良くしていた人たちが、
自分が会社を退職し、社会的な地位が無くなってしまった
途端に人が離れていき、「現役時代にあんなことしなきゃ、
こんな風に今独りぼっちにならなかったのかな?」
などと後悔しても手遅れです。

つまり、地位や肩書きばかりを追い求めてしまうと、
年老いてから惨めな思いをしやすくなってしまう
という訳です。
もちろん、周りの人とうまくやりながら地位や肩書きを
求めることができればいいかもしれませんが、
現実問題として、なかなかそれは難しいでしょう。

地位や肩書きを得るには、周りの人を落としてでも自分が
上に行って出世しなければいけないし、
だからこそ仕事はとても忙しい・・・・、
そんな中で家族にも愛情を注いで、家族との時間も大切に
するというのは、時間も余裕も無いのですから、
ほぼ無理です。

結局、私たちはいつか死ぬから、自分に残されている時間は
限られているということを普段はあまり意識しておらず、
こういった極端な行動をとってしまうのです。
極端に地位や肩書きやお金を追い求めすぎると、他に使う時間が
無くなって、その他のことが疎かになってしまいます。

人生で一番大切な人間関係が失われてしまい、年を取ってから
初めてそのことに気づき、寂しい思いをすることになるのです。
これまで仕事一筋で、全く構ってあげられなかった家族に対して、
「仕事を辞めて暇になったからこれからはやさしくしてくれ」
なんて言うのは傲慢でしょう。
家族は、これまで大切にされてこなかったということを、
身に沁みてよく分かっているし、パートナーだって
自分のコミュニティを形成していますから、もはやあなたの
居場所なんてありません。

このような、孤独な高齢者を著者はたくさん見てきたため、
地位や肩書きは当てにならないし、それを追い求め
過ぎるのは良くないと感じています。



地位や肩書きに加えて、私たちの多くがあらゆるものを犠牲に
してでも追い求めてしまうものがあります・・・、
それはズバリ! お金です。

お金を貯めるために、自分(と家族)の時間を犠牲にして、
忙しく働いているという人は結構多いのではないでしょうか。

・・・・ですが、お金を追い求め過ぎて大切なものを犠牲に
していると、地位や肩書きを追い求め過ぎた人と全く同じように、
老後に寂しい思いをすることになるでしょう。

そして、これを読んでいる家族思いの人の中には、
子供にお金を残してやりたい、パートナーにお金を残して
やりたいと必死になっている人もいるかもしれませんが、
お金を残してあげれば家族が喜ぶかというと、
実際はそうでもないのです。

例えば、遺産相続によって兄弟姉妹が裁判沙汰に
なるケースはたくさんあります。
遺産相続については子供たちで話し合って決めればいい、
うちの家族に限って揉めるようなことは無いと
楽観している親は結構いますが、息を引き取った瞬間に
お金の話を始める遺族は決して珍しいことではありません。


「私はずっと親の介護してたんだから、
遺産を多めに貰うのは当然じゃないか」


「お姉ちゃんは家を買う時に頭金を出して
もらったんだから、私は遺産を多めに貰う権利がある」


「お兄さんは介護なんて殆どしていなかったのだから、
平等に遺産を貰うなんて虫が良すぎる」


などと、子供たちの間で揉め事が起こってしまうのです。



残される財産があると、どうしてもこのような揉め事が親族の間で
起こってしまう傾向があります。
実際に著者は、これまでこういった親族の揉め事をたくさん
見てきたからこそ、財産を残すより子供にはしっかりとした
教育を受けさせて立派な社会人にしてやり、例え財産が自分に
あったとしても、子供たちに残すつもりはないと言います。

また、年を取ってくるとお金に対する考え方を変える必要が
あるとも述べていて、日本人は特に貯金が大好きな
民族ですから、今の楽しみや思い出作りを我慢して、
お金を貯め込みすぎる傾向にあります。

ですが、人生の最期を迎えつつある人からよく聞くのは、
死ぬまでに楽しい思い出をもっと残しておきたかったと
いう後悔です。
お金があって世界一周旅行に行きたくても、高齢になって
自由に歩けなくなったり、要介護認定の身体不自由になって
しまったら、日帰り旅行すらも行けなくなってしまいます。

ですから、行けるときに行っておかないと
思い出は作れません。
人生において大切なのはお金ではなく、大切な人と思い出を
作ることです。
自分が稼いだお金であり、パートナーと一緒にコツコツ
貯めてきたお金なのですから、自分たちの幸せのために
使うのが当たり前で、それこそがお金の本当に正しい
使い方です。

だんだんと身体は思うように動かなくなり、ベッドの上で
過ごす日々が多くなると、人生の最後の段階であなたの心を
支えてくれるのは、「あの時は楽しかった」という
思い出以外にありません。

ベッドの上で過ごすようになれば、もはやお金は何の役にも
立ちませんが、その時になって初めて「もう少し贅沢に
お金を使って人生の思い出を作っておけば良かった」

後悔することになります。
日本人は特に昔から、稼いだお金を好きなことに使うよりも、
貯金に回すのが正しいと思っている節があります。





老後2,000万円問題

老後2,000万円問題が話題になったことから、いよいよ多くの人は
必死に貯金に走っている訳ですが、ケチケチしてお金を貯める
必要は無いと著者は述べています。

まず、この2,000万円問題について簡単に説明すると、
2017年の高齢無職夫婦世帯の平均収入(年金など)から
平均支出を差し引くと、毎月55,000円の赤字になるという
ケースを取り上げ、30年間で総額約2,000万円が
不足するというものです。

しかしこれは、あくまで2017年の平均値から算出した額であり、
全ての人が収入以外に55,000円必要であるとは言えません。
そして、30年という年数についても、平均寿命を上回る
設定になっているため、過半数の人には当てはまらないのです。

実は、長年高齢者を診察していく中で著者が気付いたことは、
ヨボヨボになるとか寝たきりになる、あるいは認知症が
ひどくなると、お金を使わなくなるということです。
ある程度の年齢になれば、家のローンも払い終わって、
子供の養育費も掛からなくなるため、生活の多くの側面が
シンプルになることから、経済的にはかなりの余裕が
できる家庭が多いのです。

年を取ってくれば自分の価値観がより明らかになるため、
自分にとって必要なものがより分かるようになります。
そのため、物欲をはじめとしたあらゆる欲望が若い頃に比べて
低下し、物を買う頻度や無駄遣いが大幅に低下することは
間違いないでしょう。

また、年を取るにつれて私たちの健康も低下してしまうため、
体の不調や病気などによって外出の頻度が減れば、
レストランやショッピング、旅行などに使うお金も
自然と減少するのです。

さらには、認知症が進んだり、寝たきりになってしまったら
介護保険が適用されますから、特別養護老人ホームに
入ったところで費用はだいたい厚生年金の範囲で収まります。
そうなれば、もはや老後の蓄えなど必要ありません。

高齢になっても将来が不安だということで、お金をできるだけ
使わないように節約をしている人が非常に多いですが、
年金を貰える年齢であれば、病気になって入院することに
なっても国の保険制度を使えば支出はさほど掛かりません。
その時になって初めて、「一生懸命貯金しなくても
良かったんだ」
と多くの人が感じることになるわけです。

そもそも論として、老後の蓄えというのは、本来老後に使い切る
ための蓄えですから、それなのに貯金は使わず年金額の中で
生活しなければいけないと思い込んでいる人が多すぎます。
「いつまで生きられるか分からない」と、やたらに心配ばかりして、
死ぬまでお金を貯め続けるなんて、そんなバカげたことは
ありません。

お金を持っている事よりも、使うことの方に価値があるという風に
考えを変えなければいけませんから、むしろ体が動いて
頭がしっかりしているうちに、せっかく貯めたお金を使って
おかないと、人生を楽しめないし、心も体も
老化が進むばかりです。

知らない土地を旅行したり、普段行かないレストランで
珍しい料理を食べたりすると、私たちの前頭葉が活性化されて、
脳が若返ります。
前頭葉というのは、新しい刺激によって活性化されますので、
年を取ったとしても様々な新しいことにチャレンジするのは
とても大切なことなのです。



健康やアンチエイジングにお金を使ったり、おしゃれをして
色んな所に出掛ければ、健康になれると共に
幸福感が高まります。
そもそも、やりたいことを我慢しながら過ごすなんて、
長生きをする甲斐がありません。
大切なのは長生きをすることではなく、人生を如何に豊かにして
いくのかということですから、好きなことを我慢する必要は
全くないのです。

日本の高齢者は節制や我慢を美徳と考えている人が多くて、
自分の欲や娯楽を過度に制限してしまう傾向があります。
若い頃は、確かにそれがプラスに働く場合もあると
思いますが、年を取ったらそれまで囚われてきた世間体や
社会的な常識から自由になってもいいはずなのです。

多少ワガママでやっても、そんな自分を受け入れ、
思いっきり人生を楽しむことが何よりの健康長寿の秘訣です。






幸せの参照点

最後の瞬間まで幸せになるために、私たちが知っておかなければ
ならない概念があります。
それはズバリ、「参照点」です。

どれだけお金があって大きな家に住んでいても、自分には別荘が
無いとか、豪華客船に乗れないなどと、今以上の生活を
望むあまり、日々の暮らしに不満をもっている人がいます。

一方で、公園で運動するのが楽しいとか、野良猫やハトを見て
かわいいと癒されたり、どんなに貧乏であってもお金のかからない
趣味を持ち、毎日が充実していて楽しく幸せに
暮らしている人もいます。

ここから分かるのは、例えどんなに恵まれていても、
自分は不幸だと思っていたら不幸になるし、
周りから見たら「あの人ちょっと貧しくてかわいそうだね」
思われていても、本人が幸せだと思っていれば幸せなのです。

つまり、幸せというのは主観的なものであるということですが、
幸せになりたいと思っている人が意識しなければ
ならないのが『参照点』です。
参照点とは、私たちが損得を感じるときの基準となる
点のことを指していて、人は誰でも絶対的な判断軸を
持っている訳ではなく、その時の環境や状況によって
参照点は変わります。

幸せかどうかは自分の主観、つまり参照点をどこに
設定するかで決まりますから、この参照点が低い人ほど
満足感を得ることができて、幸せに暮らすことが
できるでしょう。

世の中には、必ず上には上がいますので、参照点を高く
設定すればするほど「まだまだ全然届かない」と言って
自ら不幸になってしまい、参照点を高く設定することには
大きなデメリットがあると知っておいてください。



参照点に関しては、若い頃と同じ参照点を持たないということも、
年を取ってから幸せになる上でとても重要なことになります。

例えば、若くして成功した人や、若い頃にモテていた人は、
周りがちやほやしてくれるというのが当たり前だと
思っています。
ですが、年を取ってくると周りは若い頃と同じように、
ちやほやしてくれるわけではありません。
そんな時に、「昔はちやほやされていたのにな~」と、
昔の自分と比べていたら、年を取ってから不幸に感じて
しまうのです。

今を幸せと感じるのか、不幸だと思うのかどうかは、過去の差を
どのように考えるかによって大きく変わってくるということです。
過去が恵まれていた人というのは、どうしても引き算で
考えがちなのに対して、恵まれなかった人や参照点を低く
保ってきた人は、今はあれもこれもあると足し算で考えて
幸せに生きることができます。

是非皆さんも、幸せになりたいとか、満足のいく人生を
送りたいと思うのであれば、自分の参照点を見直して
みてほしいと思います。



著者はたくさんの高齢者を診察してきたのですが、自分の老いを
嘆いて「あれができなくなった」「これだけしか残っていない」
など、無いことを数えながら生きる人よりも、老いを受け入れて、
「自分にはまだこれができる」「自分にはあれがまだ残っている」
と、あることを大切にしながら生きている人の方が幸せそうに
見えると述べています。

最後に満足して死ぬために大切なのは、
この老いを受け入れてまだ出来ることを大事にする
という考え方です。



終わり

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