MoMoの木

数年先の自分にむけて書くnote。 のどにつかえたご飯を流し込むお茶のような記事を目指…

MoMoの木

数年先の自分にむけて書くnote。 のどにつかえたご飯を流し込むお茶のような記事を目指しています。心の琴線に触れたらスキをください。

最近の記事

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note記事を書く理由

思えばここで記事を粗製濫造して半年ほど経ったが、記事を書く理由を私は一度も語ったことがない。そういう理由は折に触れて再認識する必要があると思っているので、今日はそれをしてみる。 事の始まりは大学院2年の春、研究が軌道に乗って自由時間と自尊心が膨れ上がっていた頃である。私はある作品の二次創作をしていた。研究の合間にカビ臭い自室にこもって、ネットの片隅に放流するささやかな小説を書いていた。 私はキャラクターの心情について苦渋を舐めながら掘り下げていた。考察を読み、twitte

    • SPIの性格検査を技術で切り抜けたあの頃

      「回答に一貫性がないようです。素直に答えていますか?」 と分析されたのがこの間の会社のストレスチェック。大真面目に素直な回答を選んでいるのに、それが矛盾しているとは何事かと、私はひどく憤った。 しかしあなたも覚えがないだろうか。就活をするときに必ず見ることになるSPIの性格検査だ。あれも矛盾した回答をしてしまうと、同じように矛盾していると診断が下される。 しかし人間の思考は矛盾するものだ。あるところでは善悪を基準に判断し、あるところでは身内の利益を最優先し、あるところでは

      • つまらない文章を読むべきか

        つまらない文章は読むべきなのだろうか。例えば高尚だけど読んでも面白みの分からない純文学とか、勧められたけどどうにも役立つ気がしないエッセイとか、ぶっちゃけていえば教科書なんかも教科によってはつまらなくて読む気がしないだろう。まあこれは読むべきだろうが。そういういろいろな背景のある「つまらないけど読むべき」について私なりに考察してみたいと思う。 まず勉強のためとか今後のために読むものは排するべきだろう。教科書なんかは読まないという選択肢はない。それは読め。読んで勉強しろ。理由

        • 風邪治りのリハビリ記事

          先週の日曜日に発熱してからしばらく記事が書けなかった。というのも執筆する気が起きなかったのだ。この文章を書くという行為が、いかに体力に裏付けされているか少し語っていきたい。 実家に遊びに行った帰り、なんか体に熱がこもってるなー、なんか喉がイガイガするなーと思いながら車を運転していると、家に着くころにはヘロヘロになっていて驚愕した。何かおかしいと思い熱を測っているとみるみる倦怠感が体を包んでいき、ピピピと鳴った体温計は39.5℃を示していた。 あまり経験がないので知らなかっ

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        note記事を書く理由

          明らかに顔採用の女性ばかりのラーメン屋

          暇を見つけてはラーメン巡りをするようになって数年。それだけ続けていれば店ごとの特徴が見えてくるのだが、その中でも特に気になるのが若い女性ばかりの店である。 それはただの店ではない。男女比が酷く偏っている。おしゃれなカフェかと見まがうほどに若い女性ばかりの店で、ああいう店はなぜ生まれるのだろうと私は常に疑問だった。それを今回は考えてみたい。 店側の都合まず接客において外せないのが店員の容姿の良し悪しである。なんとなく予想がつくだろうが、接客は容姿が優れていると円滑に事が運ぶ

          明らかに顔採用の女性ばかりのラーメン屋

          失恋

          私は失恋の痛みを知っている。と思っていた。しかしそれは思い違いだったとこの間の経験で痛感した。 失恋の痛みを教えてくれた彼女とは、半年ほど付き合っただろうか。期間はよく覚えていないが、互いに心通わせる時間はそれくらいあった。しかし次第に連絡はまばらになり、返信スレッドは「話せないかな」の言葉が連なるようになり、薄れるように関係が解消されていった。ついに関係が切れた時は1週間、いや1ヶ月くらいは憂鬱だった。誰にも話せなかった。私はそこで失恋の痛みを理解したと思っていた。 し

          人は声から忘れていく。私はまだ声を忘れていない

          最初に声を忘れ、最後に香りを忘れる。死んだ人のことはそんな順番で忘れられていくと言われるのを、聞いたことはないだろうか。この記事を書くにあたって私はその出典を調べてみたのだが、どうにも見つからなかった。誰が提唱した説なのかはわからないが、ともかく私はこれに懐疑的である。 それはある出来事がきっかけだった。私はkindleで読書をするときに、画面レイアウトにこだわる。画面に何行表示されるかとか、一文字の大きさはどれくらいかとか、行間はどのくらい開けるとか。そういうこだわりが快

          人は声から忘れていく。私はまだ声を忘れていない

          なぜ新書を読むよりXを眺めたほうが実用的なのか

          私は最近新書が読めていない。もとからそこまで新書を読む人間ではなかったが、明らかに新書よりXを眺めている時間が長くなった。 というのも、新書はいらないところが多すぎるのだ。速読法をまとめた本を読んだとしよう。するとまず、速読の意義とはいかなるものか、速読法の歴史はどうなのか、速読の種類はどれほどあるのか。余計なところがたっぷり書かれたあと、ようやく具体的な速読法の章に入る。 正直言って私は速読法そのものに懐疑的なのだが、それはそれとして、新書というものは大体そんな構成にな

          なぜ新書を読むよりXを眺めたほうが実用的なのか

          学生という身分の窮屈さ

          もものかんづめを読んでいてこんな一節があった。 私も大学から社会人にかけて「学校」という枠組みからの解放を体感したから、彼女の気持ちはよくわかる。学校とは意味のない抑圧が多すぎるのだ。 まず、趣味嗜好は友達グループからの監査を受けなければならない。 もし趣味が世間から見て少しでも奇特なものならすぐに茶化されるし、渾名の由来にされることもあるし、そのうえ普通の趣味だとしてもグループ内で許されていなければ禁止に追い込まれる。今は趣味も多様になり監査は少し緩くなっただろうが、や

          学生という身分の窮屈さ

          闘う君のうたを〜、闘わない奴らが笑うだろう〜の私なりの解釈

          この歌は周りからバカにされても夢を諦めず、懸命に夢に向かって励めという内容ですが、この歌が「バカにする奴らのせいで夢を諦める人をなくす」ために作られたと思っている人がよくいます。 もちろん、歌詞をまっすぐ見つめればそういうメッセージが込められているのは明白です。しかし私はひねくれているので、少し色眼鏡をかけさせてもらいましょう。 あの歌には「夢をバカにされるような奴らは、バカにされるくらいでないと勢いづかない」という洞察が裏にあると思います。 彼らが夢を諦めなかったのは

          闘う君のうたを〜、闘わない奴らが笑うだろう〜の私なりの解釈

          尊敬できる人がいない貴方へ

          身近に尊敬できる人はいますか?親とか先生とか先輩とか、もっと年を経たら上司とかが選択肢に入ってくるでしょう。去年の私にはそんな人はいませんでした。 もっと昔はいたはずです。学校の先生とか、大学の研究室の教授とか、もちろん友だちにも尊敬する人はいました。架空の人間や、テレビの向こうのタレント、ちょっと上手いことを言うネットの見知らぬ誰かなんかも。しかし去年の私には、尊敬できる人がいなかったのです。 尊敬という心が自分の中に育まれたのは、中学生のころでした。私は反抗期真っ盛り

          尊敬できる人がいない貴方へ

          私が2階のトイレを使う理由

          私の勤め先は3階にあります。毎朝3階まで、急勾配の階段をヒイヒイ言いながら登って、奥の扉をカードキーで開けて仕事場へ向かいます。守秘義務があるのでそれ以上中については書けませんが、外についてのお話は禁止されていませんので、ここに書いていきます。 部内からカードキーで施錠されている扉を抜け出ると、ちょうど正面に3階のトイレが位置しています。ここの部署の人間はこの正面のトイレを使うのがセオリーでしょうが、私はあえて使いません。理由は単純、臭いからです。2階のトイレを使います。

          私が2階のトイレを使う理由

          昔思い描いていた文章を書くという事

          私は人より文章を書く方だと思う。少なくとも「数日おきにnoteに1000文字くらいのエッセイ書いてます」なんて人は身近にはいない。それを友達に打ち明けたら「なんか病んでるんじゃない?」と言われてしまった。まあ、確かに病んでいるのかもしれないが。 そんな私がまとまった文量を書くようになったのは、高校三年生になってからだったと思う。私は工業高校に通っていたので、就職に有利になる一風変わった授業を受けることがあった。具体的なことは忘れたが、企業の人事担当だろうか、そんな雰囲気の人

          昔思い描いていた文章を書くという事

          察しの悪い子に社会常識を教えることの難しさ

          察しの悪い子というのは何を隠そう私の事である。昔の私はノンデリの中のノンデリで、それをされてなぜ人が嫌がるのか、怪訝な顔をするのか、空気が凍るのか理解できなかった。 例えば先生には敬語を使いましょうなんかはなかなか実践ができなかった。ただ年が上なだけなの人間に、なぜ改まった言葉づかいをしなければいけないのか。まともな子供なら教育者への尊敬の念とか、上下関係への感度とかが身について自然とできるようになるのだろうが、私はその感覚を自分なりに言語化してもらうか、納得できるまで説明

          察しの悪い子に社会常識を教えることの難しさ

          夜道に後ろを歩かれる恐怖

          人気のない住宅街の夜道を歩くとき、家と家の間に魔がいるのではないかと私は恐怖する。その魔というのは、幼いころはお化けだったり怪物だったりしたのだが、成人してからは心霊的な存在が一切信じられなくなり、考え方がガラリと変わった。住宅街の隙間に潜む魔というのは自分の精神が作り出す幻であって、つまり実際には魔はそこに存在しておらず、自分の精神の隙間にこそ潜むのだと思うようになったのだ。 そして数日前、ついに私は魔に遭遇した。会社の飲み会に参加した帰り道、後ろから「コツ、コツ、コツ」

          夜道に後ろを歩かれる恐怖

          会話のテンポが良くなると要らぬ事まで暴露してしまう人の性について

          というのを昼の運搬作業中に先輩と話していて思ったのだ。今日はそれについて少し語る。 どんな話をしていたかを具体的に話すつもりはない。というのも、要らぬ事までポロポロと暴露してしまう不用心な先輩と違って、私は無闇矢鱈に私生活を明かさない秘密主義の人間なのだ。それが極まった結果、こんなネット隅の誰に知られても構わないような場所にも直近の個人的な経験を書けないほど、偏屈な小心者になってしまったのだ。 何はともあれ、具体的に先輩が何を言ったかを隠してざっくりと話の内容を開陳すると

          会話のテンポが良くなると要らぬ事まで暴露してしまう人の性について